日本初の蒸気船「雲行丸」を建造したのは薩摩藩でした。安政2年(1855)のことです。オランダより寄贈された長崎海軍伝習所の練習船「観光丸」を参考に、和洋折衷船に試作の蒸気機関を搭載したこの船の完成からわずか50年余、明治31年(1898)、〈長崎造船所〉が手掛けた大型貨客船「常陸丸」の建造をもって、日本は欧米列強に肩を並べる造船大国の称号を手に入れます。
文久元年(1861)、対岸に長崎市街地を望む浦上村、飽の浦の沼地を埋め立て建設された日本初の洋式工場〈長崎製鉄所〉は、オランダから取り寄せた工作機械と西洋科学に基づく技術により、船舶の建造や修理、炭鉱機械、橋、印刷機、農機具など、諸機械の製作を重ね、わが国における近代工業化を牽引していきます。そしてまた、“造船の街、長崎”の歴史もここからはじまりました。
〈旧グラバー住宅〉の庭には大きなソテツの木があります。これは、薩英戦争の終結の仲立ちや軍艦の建造に尽くしたグラバーに薩摩藩主がプレゼントしたものといわれています。樹齢300年、国内最大級のソテツです。明治元年(1869年1月)、グラバーは日本初の洋式近代的ドック「小菅修船場」を完成させますが、これは、かねてより友人であった薩摩藩•五代友厚、小松帯刀らと共に練った綿密な計画の結晶でした。グラバーは薩摩藩と強く繋がっていました。攘夷が吹き荒れる幕末、国禁を犯し産業革命発祥の地、大英帝国へ渡った若者たちがいました。長州藩の5人—— 「長州ファイブ」と、薩摩藩の19人—— 「薩摩スチューデント」です。「薩摩スチューデント」と呼ばれる面々は、薩英戦争からわずか1年7ヶ月後の慶応元年(1865)、グラバーが手配した船で渡英しました。グラバーは“逃がす”ための密航ではなく、見聞を広め、海外の進んだ知識を学ばせるための密航—— つまり、密航留学生の派遣を助けたのでした。その中には、五代友厚もいました。
「小菅修船場跡」
〈小菅修船場〉は、修理する船を潮の満ち引きを利用し、設置した「滑り台」に乗せ、ボイラー型蒸気機関で曵き揚げる仕組みの洋式スリップドック。レール上の滑り台がソロバン状に見えることから通称「ソロバンドック」と呼び親しまれています。小菅修船場は、日本で初めて蒸気機関を利用した洋式近代的ドックです。西南戦争があった明治10年(1877)には17隻の船がここで修理されており、その記録を見ても、かなりの稼働率だった当時の様子が伺えます。日本人造船技師たちにとって、ここで船を修理することは、実際に船の構造や仕組みを学ぶ実地訓練。つまり、日本で最初の造船訓練所の役割も兼ね備えていただけではなく、同時代、実際に木造蒸気船や帆走船など16隻が建造されていることから、日本の近代造船所発祥の地とも言える貴重な場所でもあります。この小菅修船場は、完成同年4月には、グラバーの手を離れて明治政府に買収され、官営〈長崎製鐵所〉の付属施設として政府雇用の外国人技師チームによって管理され、明治17年(1884)から三菱の経営となり、明治20年(1887)には、払い下げを受け、名実ともに三菱長崎造船所の経営となりました。
〈長崎製鐵所〉にはじまる「三菱重工業㈱長崎造船所」150年余りの長い発展の歴史を物語る貴重な遺産のうち5つが、現在、世界遺産登録を目指す「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域」の構成資産となっています。まずは、前述した「小菅修船場跡」。そして、今も長崎港に尊大な存在感を放ち、現在も生産活動に利用されている「ジャイアント・カンチレバークレーン」と「第三船渠」、今は史料館として利用され往時の姿を留めている「旧木型場」、そして、三菱が誇る迎賓館「占勝閣」です。
「ジャイアント・カンチレバークレーン」
水の浦岸壁にそそり立つこの巨大クレーンが長崎港にお目見えしてから実に100年余りの歳月が流れました。明治42年(1909)、イギリスから輸入された当初は三菱造船所飽の浦の艤装岸壁に設置。その後、水の浦岸壁へ移設されました。吊上能力は150トン。クレーンの下は水深が深く、大型船も横付けできることから、船舶エンジンなどの大型艤装製品の船への搭載に使用されました。最近では、陸用原動機の船積みなどで活躍。現在も月平均10数回程度の使用頻度で稼動を続けています。
「第三船渠」
明治12年(1879)、当時東洋一の大きさを誇った第一船渠(ドック)が完成。ここで、〈長崎造船所〉としての経営がはじまった翌年の明治18年(1985)、鉄製の汽船、長崎-高島-端島間の貨客船「夕顔丸」の建造が開始されています。明治29年(1896)には第二船渠(ドック)が完成、明治31年(1898)には造船奨励法によりロイドによって初めて認められた国産の大型貨客船「常陸丸」が建造されました。そして、明治38年(1905)、第三船渠(ドック)が完成。このように明治期、長崎港周辺には次々とドックが建設され、長崎の造船業は黄金期を迎えました。明治生まれの第三船渠は、3度の拡張工事を経てはいますが、今も稼動する唯一のドックです。
「旧木型場」
「木型場」とは、溶けた金属を流し込む鋳型を造るための木の模型を造る作業場のこと。明治31年(1898)、鋳物工場に併設されたこの建物は、三菱重工発祥の長崎造船所に現存する、最も古い赤レンガの建物です。この木型場は改装され、昭和60年(1985)10月、「三菱重工業㈱長崎造船所史料館」として開館。日本の産業の近代化を牽引した長崎造船所の歴史の変遷や技術の進歩を物語る機械や資料など、約900点の品々を展示しています。なかでも注目は、国の重要文化財に指定された日本最古の工作機械「竪削盤」。これは、長崎造船所の前身である〈長崎鎔鐵所〉建設のため、幕府が安政4年(1857)にオランダから購入した18台の工作機械のうちのひとつで、機械工場や造船工場で大活躍を果たした幕末から明治にかけての日本の重工業発展の原動力となった機械です。
旧木場跡
日本最古の工作機械「竪削盤」
「占勝閣」
第三船渠の北方向、緑に包まれた丘陵に建つ、まるで中世ヨーロッパの古城のようなシルエットの木造2階建て洋館。明治37年(1904)に落成、長崎造船所長の邸宅として計画されましたが、実際は進水式などで臨席された皇族方をはじめとした迎賓館として使用されました。2階建て木造洋館の内部に設置された調度品の数々は、建設当時に輸入した最高級の英国製品で揃えられ、所有する書画や器物なども数多く、いずれも由緒深い品々ばかりです。現在、一般公開はされていませんが、高台から見下ろす長崎港と「占勝閣」の風景は、明治期の長崎を彷彿とさせる景観です。