18世紀、イギリス発の産業革命の柱となったのが、蒸気機関の発明、改良であり、その蒸気機関の発達に並行して、蒸気の原動力となる良質の石炭が求められ、全国各地で採炭事業が興っていきました。当時石炭は、〈黒ダイヤ〉と呼ばれていたほど貴重なものでした。石炭資源の豊かな九州の炭鉱の歴史は、長崎沖合の海洋炭鉱にはじまります。日本初の近代炭鉱は長崎中心部から南西の沖合14.5km、洋上に浮かぶ高島。この島で石炭が発見されたのは元禄8年(1695)、偶然の出来事だったといいます。以降、高島を治めていた佐賀藩は、地表から突き出た炭層をつるはしで削り取り、それを人夫が籠で運ぶ、いたって原始的方法で採炭し、有田と伊万里での陶器製造の燃料に利用していました。19世紀に入り、イギリスをはじめとする欧米列強のアジア進出に伴い日本は開港。長崎は石炭運搬や欧米列強の蒸気船のための石炭補給拠点としての役割を担うこととなります。こういった外国の蒸気船の燃料として高まった石炭の需要を受け、慶応4年(1868)、高島に着目したのがグラバーです。グラバーは、佐賀藩主・鍋島直大とともに西洋の機器導入による採炭方法を検討。英国人技師モーリスを招き、日本最初の蒸気機関を用いた洋式採炭による近代的炭坑「高島炭坑」を開坑。翌年には深さ43mで着炭し、北渓井坑(ほっけいせいこう)と命名され、操業します。その後、三菱の岩崎彌太郎の傘下で炭坑開発が本格化され、明治23年(1890)、三菱は高島の南西約2.5キロに位置する端島を、所有者であった鍋島孫六郎から買収。「端島炭坑」は、高島炭坑の支坑として本格的な操業をスタートさせました。
北渓井坑は、西洋の最新技術と機械が導入された日本最初の蒸気機関によって海底炭田を掘る竪坑で、日に300トンの出炭量を記録したとされます が、1876(明治9)年海水の浸入により廃坑となりました。この石炭生産技術は、その後、筑豊や三池炭鉱に伝わり、旧来の技術を一新し、わが国の炭鉱開発へとつながっていきました。
端島炭坑は、時期こそ高島に遅れはとったものの、明治30年(1897)の出炭実績では高島炭坑を抜き、それ以降、昭和49年(1974)の閉山まで出炭実績を抜かれることのない優良な炭坑でした。また、日本初の鉄筋コンクリートの高層アパートが次々に建設され、シルエットが軍艦「土佐」の形に似ていることから通称「軍艦島」の通称で全国区の知名度を誇る端島は、島全体が炭坑で成り立っていた類い稀な島でした。
高島炭坑(北渓井坑跡引き)
端島炭坑
手掘りではじまった海洋炭鉱の開発にグラバーが蒸気機関を導入して約40年、日本の技術は「三池炭鉱」の誕生で世界に追いつきます。
三池炭鉱は、高島炭鉱に次いで西洋の採炭技術を導入し開発された炭鉱で、〈三池炭〉は高品位で、豊富な埋蔵量を誇り、国内外の石炭需要を担いました。明治22年(1889)、三池炭鉱は明治政府から三井に払い下げられます。そして三池炭鉱において三井が最初に独自開発を行った坑口が「三池炭鉱 宮原坑」でした。明治27年(1894)、勝立坑の排水に成功した三池炭鉱事務長の団琢磨(だんたくま)は、宮原と万田付近に新坑掘削の必要性を上申し、明治31年(1898)に宮原坑第一竪坑(主に揚炭・入気)を、明治34年(1901)に、第二竪坑(主に人員の昇降・排気)を完成させます。明治から大正にかけて年間40万トンから50万トンの石炭を掘り出していた宮原坑は、三池集治監(今の刑務所)に収監されていた囚人を労働力として利用していたことから、囚人たちからは、その厳しい労働から別名「修羅坑」とも呼ばれていました。
一方、「三池炭鉱 万田坑」は宮原坑の南約1.5kmに所在し、宮原坑鉱区南側の炭層を採掘する目的で、明治30年(1897)に基礎工事に着手しました。第一竪坑は明治35年(1902)、第二竪坑は明治41年(1908)に完成。これらの坑口施設の完成に伴い、巻揚機室、汽罐場、選炭場、事務所などの諸施設が完成し、明治35年(1902)から出炭を開始しました。鋼鉄製の第二竪坑跡と鋼鉄製の櫓、煉瓦造りの巻揚機室など、明治期における石炭採掘のための施設が、現在も良好な形で残っています。
団琢磨などの努力により採炭技術の近代化が急速に進められた三池炭鉱は、明治、大正、昭和期を通じ、各種産業の勃興、発展を促したわが国の近代化の牽引役的主要炭鉱でした。
三池炭鉱宮原坑