第1回でも触れたように、文久元年(1861)、長崎に日本初の本格的な洋式工場「長崎製鐵所」が完成。幕府が開所した海軍伝習所総監理OR所長の永井玄蕃頭尚志(ながいげんばのかみなおゆき)は、オランダ海軍中佐ファビゥスへ製鉄所建設を依頼。永井は海軍創設のためには艦船造修施設の必要を痛感、製鉄所と船渠開設を幕府に進言していました。そして、オランダ海軍機関将校ハルデスを主任技師に、オランダから機械を輸入・・・日本の重工業は、かねてから長崎と縁深いオランダの協力を得て産声をあげました。古来より日本の物流は、風を繰り近海を航行する和船に依存していました。しかし、嘉永6年(1853)、ペリー提督が2度目に来航して以降、日本の海運需要は急激に伸び、大船建造禁止令の禁が解かれたこともあって各藩は急速に洋式船の建造へと力を注いでいきました。しかし、1本マストの和船は、甲板が揚げ板式でもろく、洋式船とはまるで違う構造で竜骨もありません。まして外洋へ出航する船を製造するとなれば、天文学や蒸気機関など、西洋科学の知識を得る必要がありました。そのような中、ヨーロッパの技術を備えた機械工場 長崎製鐵所では、数年前まで紙やすりでねじ山を削っていた日本の匠が、オランダから取り寄せた工場のねじ切り盤や工作機械の職工として、西洋科学を習得することができました。そして、ここで習得された工作技法が国内各地へと広がり、わが国における近代工業化への礎となっていくのです。「長崎製鐵所」の施設は明治維新とともに政府が接収し、そのまましばらく官営の時代が続きました。その間、船舶の建造や修理、諸機械の製作が行われるようになります。造船は総合産業であり陸の機械にも転用され、炭鉱機械、橋、印刷機、農機具に至るまで近代化が波及していったのです。「一人の力を持って数百人の工をなす」—— 蒸気機関はまさに近代化の原動力でした。
明治17年(1884)、民営への移行方針が決まると、三菱が政府に「長崎製鐵所」の拝借願を出し、工場施設を借用、「郵便汽船三菱会社」が事業継承。明治20年(1887)には政府から払い下げられ、三菱社が借用の施設一切を買い受け、正式に三菱の経営へとなります。明治26年(1893)、三菱合資会社の設立に伴い「三菱合資会社三菱造船所」と改称。以降、改称を重ね現在の「三菱重工業株式会社長崎造船所」となりました。
この長崎製鐵所の完成に先駆け、開国以前の日本で西洋科学に挑み、自ら近代化を成し遂げようと動き出したのだのが、西南雄藩を中心とした諸藩です。列強諸国による植民地化を防ぎ、日本を自らの力で強く豊かな国にしようと〈大砲鋳造〉〈造船〉〈製鉄〉〈人材育成機関〉に着手しました。きっかけは、天保11年(1840)から2年に渡り行われたアヘン戦争。この戦争で日本が師と仰ぐ東洋の大国清がヨーロッパの小さな島国に大敗。・・・彼らは煙を上げて走る蒸気船と、遠くからでも撃てる大砲を持っている。中国でも勝てない相手なら日本はひとたまりもない・・・まずは海防強化に努めようと、旧来の青銅製大砲に代わる強力な鉄製大砲の自力生産の模索を開始します。「自前の大砲と軍艦をつくろう」と、いち早く動き出したのは、長崎防衛の任にある佐賀藩。長崎海軍伝習所に多くの藩士を派遣し、持ち帰った西洋技術の情報を基に、安政5年(1858)には、海軍教育施設である〈御船手稽古所〉を設立し、その後、佐賀藩が保有する洋式帆船や蒸気船の修理のための船渠や施設を建造していきます。その跡地が現存する「三重津海軍所跡」です。
また、嘉永4年(1851)には、前年に薩摩藩主に就任した島津斉彬(しまづなりあきら)が、大砲鋳造や造船を核とした様々な産業を担う工場群を鹿児島城下磯地区に創設。大砲鋳造のための反射炉や、ガラス工場、鍛冶工場などが林立する日本で最初の工業コンビナート「集成館」の誕生です。反射炉とは、鉄製大砲の鋳造に必要な金属溶解炉のこと。斉彬は反射炉建設にあたり、すでに反射炉建設に成功していた佐賀藩主鍋島直正(なべしまなおまさ)から取り寄せた技術書、オランダ陸軍ヒュゲニン少将の著作「ロイク国立製鉄鋳造所における鋳造法」を基に、地元の石積技術を用いた基礎や薩摩焼の技術で焼いた耐火煉瓦など、西洋と日本の伝統技術を融合し、自力による近代化を進めていきました。
三重津海軍所跡
旧集成館(反射炉跡)
一方、徳川幕府との対立を経て天皇を中心とする近代的統一国家の形成を主導した西南雄藩のひとつである萩(長州)藩もまた、安政2年(1855)、いち早く西洋の兵学や文化などを広く研究するための西洋学所という教育機関を設け、安政3年(1856)には「恵美須ヶ鼻造船所」を建設。伊豆の戸田村、長崎の海軍伝習所に船大工を派遣し、西洋技術の情報を得て、最初の洋式軍艦「丙辰丸(へいしんまる)」を建造するなど兵制の改革、軍備の拡充に努めました。なお、丙辰丸建造に際しては、萩市紫福(しぶき)の大板山(おおいたやま)たたら「大板山たたら製鉄」の鉄が使用されました。そして、軍事力強化の次なる試みは鉄製大砲の鋳造に必要な金属溶解炉である反射炉の導入です。同年、萩藩は、西洋式の大砲鋳造技術を目指し、試作的に「萩反射炉」を建設。それは、安政4年(1857)に完成した幕府直営の「韮山(にらやま)反射炉」(静岡県伊豆の国市)、集成館同様、佐賀藩を模範に、同藩の協力を受け建設された反射炉でした。
恵美須ヶ鼻造船所跡
大板山たたら製鉄遺跡
萩反射炉
韮山(にらやま)反射炉
「鉄は文明開化の塊なり」—— 幕末の啓蒙学者、福沢諭吉の言葉通り、鉄道、船、蒸気機関、すべての製造には、製鉄の技術が要となりました。安政5年(1858)、盛岡藩士 大島高任(おおしまたかとう)は、岩手県釜石の山深い場所に、鉄鉱石を用いた西洋式の高炉技術を導入し、鉄の大量生産を可能にする技術の礎を築きました「橋野高炉跡及び関連遺跡」(岩手県釜石市)。
橋野高炉跡
幕末に産業化に取り組み、産業文化を育んでいった萩(長州)藩。慶長5年(1600)、西軍の総大将として関ヶ原の戦いに敗れた毛利輝元は、慶長9年(1604)、萩の指月山に居城を築き、城下町の建設を進めました。上級武家地、中・下級の武家屋敷や町屋、寺院など、整然と配置された当時の町割りは残され、近世の封建社会時代の典型的な町として「萩城下町」は受け継がれています。また、萩には、萩(長州)藩校明倫館の兵学師範であった吉田松陰の私塾「松下村塾」がありました。松蔭はこの塾において、近代化を成し遂げていく過程で重要な役割を担う人材を教育。わずか2年10ヶ月の間に約90名の塾生を指導しました。松下村塾生には、高杉晋作や伊藤博文、山県有朋などのほか、工務省長崎製作所長(明治7年当時の「長崎造船所」の名称)の渡辺蒿蔵(わたなべこうぞう)も名を連ねています。
萩城下町
松下村塾