かつてのまちの玄関口、長崎港を一望できる高台に位置する長崎有数の観光スポット グラバー園。その園内に、四ツ葉のクローバー型の屋根が特徴的な建物があります。日本を近代化へと導いたトーマス・ブレーク・グラバーの邸宅、日本最古の木造洋風建築「旧グラバー住宅」です。英国スコットランド・アバディーン出身の商人グラバーは、安政6(1859)年の開国と同時に上海経由で長崎へ。まだ21歳の若き青年でした。
グラバーが降り立った長崎は、元亀2(1571)年、ポルトガルとの貿易のために新たに開かれたまち。他国との国交を閉ざした鎖国期には、唯一の窓口として開かれ、独占貿易権を持った東インド会社のオランダ船と唐船によって賑わい、潤ってきた古くからの海外貿易港でした。
文久2(1862)年、「グラバー商会」を旗揚げしたグラバーは、製茶業や武器艦船の調達などの貿易業を営む傍ら、近代的事業を起こし、我が国の産業発展に大いに貢献していきました。慶応元(1865)年、外国人居留地の埠頭、大浦海岸通りを日本最初の蒸気機関車が煙と蒸気を吐きながら重々しく走り抜けました。グラバーが、上海の展示会で購入し、持ち船で長崎へと運び、数百メートルに渡り敷設した大浦海岸通りの線路を走らせた「アイアン?デューク(鉄の公爵)」です。このときの燃料は国産の石炭。それは、日本初の本格鉄道が東京?横浜間に開通する7年前のことであり、蒸気機関車の将来性を日本人に認識させた出来事でした。
また、グラバーは近代化と工業化が進む幕末日本において、今後石炭の需要が伸びることを見越し、続く慶応4(1868)年、英国人技師を雇用し、イギリスからすべての必要な機器を輸入。すでに石炭が発見されていた長崎港口に浮かぶ高島で蒸気機関を用いた洋式採炭による近代的炭鉱を明治初年頃操業させました。
さらに、明治元(1869)年、イギリスの技術の粋を集めた〈小菅修船場〉を完成させます。当時長崎の商社が販売していた船は中古船で、故障が絶えませんでした。そこでグラバーは、薩摩藩の五代才助(友厚)、小松帯刀らと大規模な修船場の建設計画を練り、故郷 アバディーンで「グラバー商会」の代理人を務めていた長兄の協力を得て、日本最初の近代的ドックを建設したのです。今も長崎港の入り江に現存する「小菅修船場跡」。そこには、往時の名残ある風景が広がっています。
旧グラバー住宅
小菅修船場跡
他にも、長崎のまちでは全国に先駆けた近代化に向けての動きが見られます。開国目前の安政2(1855)年、江戸幕府は海軍創設を目的として、長崎に海軍伝習所を開設しました。そこでの訓練船は、オランダから贈られた練習艦「観光丸」。日本初の木造蒸気船でした。そのうち船や蒸気機関に細かな故障が生じ、修理のための機械設備を備えた施設が必要となってきたため、幕府はオランダから機械を輸入し、海軍機関士官ヘンドリック・ハルデスらを招き、〈長崎鎔鐵所〉を創設。安政4(1857)年、奉行所の許可を得て建設工事を開始し、開国後の文久元(1861)年、日本初の本格的な洋式工場、煉瓦造りの〈長崎製鐵所(飽の浦機械工場)〉を完成させました(建設中に改称)。この〈長崎製鐵所〉の創設によって、長崎のまちなか、人々の目に触れる場所に、近代化の成果が登場します。市街に流れる〈中島川〉の中央に位置する重要な橋が、木製から鉄製の橋へ様変わりを見せたのです。設計は、オランダ人技師ホーゲル。〈長崎製鐵所〉が建設し、当時の頭取、本木昌造が監督施工した、その橋とは、現在、「中央橋」の愛称で親しまれる、「鐵橋(くろがねばし)」の前身となる橋。それは、日本で最初の「鉄橋」でした。また、本木昌造と言えば、「近代活版印刷」の祖として知られる人物。もともとオランダ通詞であった本木は、オランダ船が積んできた西洋の活版機材(印刷機や活字)を元に、数名の有志とともに長崎奉行西役所に「活字版摺立所」(後の「出島印刷所」)の設立を提案。そこで鉛版印刷を手掛けていましたが、その不完全さを自覚し、明治2(1869)年、上海で活躍していたアメリカ人活版技師ウイリアム・ガンブルに金属活字鋳造を学ぶ〈長崎製鐵所〉付属の「長崎活版伝習所」を開設。翌年には、我が国初の民間活版所である「新町活版所」を創立し、活字鋳造と印刷を開始させました。また、デンマークに拠点を置く「大北電信会社」による「国際海底電信」が、国内ではじめて開始されたのも長崎の地です。明治4(1871)年6月、我が国初となる海底ケーブルが敷設され、長崎?上海間の国際通信が開始。その後、長崎?ウラジオストク間のケーブルも開通し、同11月に通信を開始させました。
このように、幕末?明治の長崎には、いち早く近代化の波が押し寄せてきましたが、海外からの脅威に対抗するために、日本全体が近代化に急速に取り組みます。そして、19世紀、イギリスをはじめとした欧米列強諸国によるアジアへの進出が続く中、長崎港は、高島炭坑をはじめ、近郊で良質の石炭が採炭できる環境を武器に、アジアへ進出する諸国の蒸気船の燃料、石炭補給拠点港として栄えていきました。
【構成資産の場所】