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浦上四番崩れvol.10信仰の表明による復活と弾圧【弾圧】と呼ばれるキリシタンの大検挙において、浦上のキリシタン達は一村総流配の処分を下され、約3400名もの人々が富山以西の20の藩へ流配されました。浦上の人々は、それを「旅」と呼びました。流配先の日々は、それはそれは悲惨だったといいます。
この「旅」で、重要人物114名の一人として慶応4年(1867)7月の第一陣で津和野へ送られた本原郷の高木仙右衛門(せんえもん)という人物がいます。先祖は長崎代官を務めた高木家の一族で、キリスト教の信仰を守るために浦上村へ移住し農民となった人です。仙右衛門は、信徒発見後vol.9 大浦天主堂の創建と信徒発見【復活】は秘かに大浦天主堂へ出入りし、教理(キリスト教の教え)と祈りを習って、vol.8 kakureの歴史【カクレキリシタン】信徒達の指導にあたっていました。流配の様子を記録した「仙右衛門覚書」には、長崎を離れる時の様子や、「旅」先の津和野で氷の張る池に放り込まれる責め苦を受けたことや、取調べで改宗を迫る役人との会話などが記されており、現代の私達にはとても想像し難い苦痛を味わった浦上キリシタンの体験を伝えています。
流配先での環境は各藩により様々でしたが、改宗しないものに対して、食糧を減らしひもじくさせる「口責め」はもちろん、風雪の中に一週間さらされる「寒ざらし」など、その拷問は残酷さを極めるものでした。また、馬小屋など、不潔な環境にすし詰めで生活させられるため、熱病が流行し、息を引き取る人も数多くあったといいます。
こういった浦上キリシタンへの弾圧に続き、明治4年(1871)、伊万里県深堀領(現長崎市出津、黒崎、神の島、伊王島、大山、香焼(蔭の尾島)、高島地区)において、キリシタン67名が捕えられる「伊万里県事件」が起き、外字新聞に掲載されると、流配された浦上信徒の釈放と禁教の高札撤去への世論が欧米でわき起こりました。そして、明治6年(1873)、諸外国からの強い抗議に弾圧停止の考慮を余儀なくされた明治政府は、ついにキリシタン禁制の高札を撤去し、太政官令を出して、浦上キリシタンは釈放され、次々に帰村しました。流配先では660名にも及ぶ人々が殉教したといわれます。長く続いた苦難に耐え、浦上キリシタン達は「旅」から帰ってきたのです。
しかし、帰村した人々には、家や財産はありません。食べるものにも困る生活。それでも長く苦しい「旅」に耐え、帰還した浦上キリシタン達が真っ先に求めたのは、魂の拠りどころである神の家、教会堂でした。かつて踏絵を強要された庄屋跡を買い取り、質素ながらも仮聖堂を建立。かつての赦しをここで祈りました。正面双塔にフランス製のアンジェラスの鐘がつけられた石と煉瓦造の堂々たるロマネスク様式の大聖堂が完成したのは、起工から30年後の大正14年(1925)のことです。貧困に苦しみ、なかなか資金が集められず、長い期間、耐えに耐え、自ら労働奉仕を行って手にした自分達の教会堂でした。しかし、ロマネスク様式では東洋一を誇ったこの教会堂も、原爆によって一瞬のうちに倒壊していまいました。それでも信徒達は再び新しい教会堂建築を決意し、新たな浦上教会を甦らせました。現在の浦上教会は司教座がある※カテドラルです。この浦上の地が、長い期間、潜伏してキリシタン信仰が伝承され、迫害の苦難に耐えて、キリシタン復活を果たした功績の証ともいえるでしょう。
今も教会堂入り口正面には、信仰を守り抜いて「旅」から帰村した信徒達が公教復活50年を記念して建てた「信仰乃礎碑」が、誇り高くそびえ立っています。
※注/カトリック教会、各教区の中心となる教会のこと。 |

旧浦上天主堂遺構 |

信仰之礎碑 |
最終回にあったって――長崎の町の成り立ちと歩みに大きな影響を与えたキリスト教は県下においても同じであった。それぞれに刻まれた深い歴史と価値を理解し、長崎の教会群とキリスト教関連遺産を次世代へ伝えていきたいものだ。 |
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★その頃の長崎★
開国を機に欧米諸国と交流を持つことで、幕末から明治、大正にかけて、日本は大きく変化していきました。重工業の発展と、利便性を追求していく「近代社会」の歩みは、まさにこの時期にスタートしたといえます。しかし、幕末から明治初頭、欧米からもたらされた近代化の波を取入れていく一方で、人権否定といえる「強制流配」を実施。明治政府が新たな制度や考え方、技術を導入しつつも、江戸時代からの宗教政策を継続するという混沌とした様子が見えてくるような気がします。長崎では、浦上キリシタンの流配が始まった慶応4年(1867)、日本各地に設置された8つの西洋式灯台の一つ伊王島灯台が完成。浦上キリシタン達が帰還した明治6年(1873)、国内に敷設されつつあった電信線が長崎まで延長され、国内各地との公衆電報が開始されています。旧浦上天主堂が未完成のまま献堂式が執り行なわれた大正3年(1914)の翌年には、長崎市内の町のシンボル! 路面電車が開通。しだいに現代の長崎の姿に近くなってきましたね。そして、旧浦上天主堂が完成した翌年の大正15年(1926)には、往時日本最大規模だった日見トンネルが完成しました。 |
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★キリスト教人物伝★ フレノ神父(1847-1911)
帰還した浦上信徒を導き支えた神父
石工・大工の家系に生まれたピエール=テオドール・フレノ神父は、カトリックの中等教育を受け、パリにある外国宣教師養成施設に入り、明治6年(1873)に来崎しました。そして、明治21年(1888)9月、浦上小教区主任司祭となったフレノ神父は、明治25年(1892)、「旅」から帰還した浦上信徒達が建てた仮聖堂の老朽化と、日曜のミサ毎に信徒達が堂外に溢れることを見かね、増えゆく信者数に見合う壮大な教会堂を計画します。建築費の捻出方法は、フレノ神父自ら、毎月、日を決めて浦上を地区ごとに廻り、積立金を集める募金行脚。フレノ神父が建てようと思っていたのは、中央に大きなクーポラ(円天井)がある11世紀初頭、ヨーロッパのキリスト教国で隆盛を極めた建築様式、石と煉瓦造のロマネスク様式でした。フレノ神父は、建築学に長け、また芸術的センスを持ち合わせていたといわれます。しかし、明治44年(1911)過労に倒れ64歳で逝去。その完成を見ることはできませんでした。建築工事はフレノ神父の遺志を継いだラゲ神父が引き継ぎました。一部設計が変更され、大正14年(1925)、旧浦上天主堂が完成しました。 |
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