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禁教時代、表面上は仏教徒を装い、秘かにキリスト教の信仰を貫くために潜伏することを余儀なくされた人々のことを潜伏キリシタンと呼んでいます。潜伏キリシタンは、長崎県の浦上や外海、生月、熊本県の天草地方、福岡県の今村などに存在していました。フランスのパリ外国宣教会が再布教を開始し、明治6年(1873)に禁教の高札が取り除かれると、多くの潜伏キリシタンがカトリック教会に復帰しました。しかし、長崎県の外海、五島地方、そして生月島などでは、カトリック教会に戻ることなく、潜伏時代からの信仰形態を継承した人々がいました。その人々はカクレキリシタンと呼ばれます。各地のカクレキリシタンの信仰形態は地域によって独自の発展、変化を遂げていったため一括りに表現することはできません。しかし、私達がよく知るところではマリア観音、十字架、メダイなどの信仰具が用いられること、代々伝わる祈りオラショが存在すること、また、各地で名称は異なりますが、キリスト教伝来初期から信徒の間で組織されコンフラリア(組・講)と呼ばれる信心講を原型とした三役のもと組織されている点などは共通しているといえるでしょう。例えば三役は、浦上キリシタンでは惣頭(帳方)・触頭(水方)・聞役という名称。きっと一度は耳にしたことがあるんじゃないでしょうか? そして、それが生月の壱部地区では、オジ役・オヤジ役・役中となります。 |
生月には四ヶ所ほどカクレキリシタン組織が存在し、それぞれ独自性が見受けられる一方、次のような多くの部分で共通点が見られます。先人の殉教の地や殉教者を祀(まつ)る祠(ほこら)など、聖地とされる場所が多いこと、オラショは声を出して唱えること、年間行事が多いことなどです。生月に暮らすカクレキリシタンの人々が、「御三体さま」「サンジュワン様」「おむかえ様」「お中江様」と呼ぶ中江ノ島は、島そのものが信仰の対象となっています。ここは、元和と寛永の時代に起こった殉教の舞台となった場所なのです。殉教の出来事はキリシタン達の間で子から孫へと伝承されました。生月のキリシタン達は組織をつくり、秘かに年中行事を伝承し、オラショを唱え、250年以上もの長い潜伏時代を経て、信仰を守り抜いてきました。その信仰の形態は、長い年月の間に本来のカトリックとは異なったものとなっていったのです。
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サン・ジワン枯松神社(外海町) |
このようにカクレキリシタンの信仰の形は、先祖から伝えられたその信仰の形を絶やすことなく継承していく、極めて先祖崇敬の意味が強い信仰であり、代々継承されてきた信仰を守るうえでカトリック教会への復活に繋がらなかったのだと考えられています。 |
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★その頃の長崎★
長崎港外に浮かぶ小島のひとつ、伊王島。キリシタン禁制の中で、大村藩のキリシタンの多くが五島へ移住したように、平戸、佐賀両藩の潜伏キリシタン達も五島や山間僻地へ移住。その際、伊王島へも逃れて来たのだといいます。現在の伊王島は元々2つの島。当時、沖之島の馬込、伊王島の大明寺、両島の境の船津の三郷から形成され、船津郷は仏教徒の集落で、馬込と大明寺がキリシタン集落でした。口伝やその後の研究、また「御水帳(おみずちょう)」(洗礼台帳)によれば、大明寺は三重・黒崎、出津から、馬込は天草、黒崎、深堀、蚊焼などからの移住者だといわれます。幕府時代は佐賀藩深堀領として鍋島氏の支配下にあった伊王島ですが、明治新政府のキリシタン迫害はこの地にも及び、伊王島のキリシタン達も厳しい迫害に苦しみました。明治4年(1871)、キリシタンへの迫害「伊万里事件」が外字新聞に掲載されたことで、流配された浦上信徒の釈放と禁教の高札撤去への世論が欧米でわき起こりました。同年、馬込の信徒は自分達の聖堂を建立しましたが、これは、浦上の秘密教会以外では最も早いものでした。明治6年(1873)に禁教の高札が撤去されると伊王島の潜伏キリシタンは次々にカトリックに復活しましたが、馬込の潜伏キリシタンの中には、潜伏時代からの信仰を継続したカクレキリシタンの人々がいました。しかし、明治17年(1884)、自葬を願い出た馬込のカクレキリシタンに、戸長が仏僧か宣教師かに葬送をお願いするよう命じ、これを機会に洗礼を受け、全員がカトリックに復活しました。 |
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★キリスト教人物伝★ ガスパル西(1526 ?-1572)
生月キリシタンのルーツ |
生月カクレキリシタンによって祀られている祠に、ガスパル様の呼称で親しまれる殉教者ガスパル西玄可(にし げんか)の墓、通称ガスパル様の墓があります。 ガスパル西は、2歳の時、生月に布教に来たガスパル・ヴィレラによって洗礼を受けました。西家は、生月島の籠手田領の代官を務めた名門でした。生月のキリシタンの指導者であったガスパル西は、教義によく通じ、教会暦を所持して宗教上の行事を司り、洗礼を授けるなどを行っていましたが、慶長14年(1609)、妻ウルスラと長男ジョワンと共に、かつて十字架がそびえ立っていた「黒瀬の辻」で斬首されました。その地には、今もガスパル様の墓があり、平成4年(1992)には、6mの十字架がそびえる生月殉教者慰霊碑が建てられました。平成20年(2008)には、ガスパル西、ウルスラ、ジョワンは列福されました。また、ドミニコ会司祭となり、寛永11年(1634)に西坂で殉教した次男のトマス西は、昭和62年(1987)に列聖されています。 |

ガスパル様殉教碑(生月町)
写真提供:長崎県観光連盟「旅ネット」 |
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