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大浦の外国人居留地に建てられた大浦天主堂の献堂式から1ヶ月後、訪れた杉本ユリら浦上の潜伏キリシタン15人の秘密の告白による信徒発見の奇跡が起こると、県内各地で秘かに信仰を守り続けてきた潜伏キリシタン達も大浦天主堂のプチジャン神父を訪ねました。潜伏キリシタン達は、見物人を装っては入れ代わり立ち代わり大浦天主堂へと礼拝に行ったといいます。そして、7世代待ち望んだ神父との出会いを実現した浦上のキリシタン達は、間もなく浦上の4ヶ所に秘密教会をつくりました。プチジャン神父をはじめとする神父らは、彼らが用意したその場所へ巡回し、洗礼を授け、教理(キリスト教の教え)を説きました。
しかし、依然として日本人に対しての厳しいキリシタン禁制は続いており、江戸幕府は様々なキリシタン検索制度を用いてキリシタンを検挙していました。なかでもキリシタン達の日常生活に深く関わっていたのが、踏絵制度と寺請制度です。
踏絵制度は、長崎ではすでに安政3年(1856)に廃止されましたが、寺請制度はその頃もなお続いており、浦上のキリシタン達は、表向きは馬込郷の聖徳寺の檀家のままでした。それはつまり、死者が出たら聖徳寺の僧侶によって仏式の葬儀を営むことが義務、ということです。信徒発見の年から2年間は、浦上村では死者が出なかったため、問題になることはありませんでしたが、慶応3年(1867)年に入り立て続けに死者が出ると、浦上のキリシタン達は、自分達で葬送するため聖徳寺の僧侶による仏式の葬儀を断り、その上、聖徳寺とは縁を切りたいという旨を庄屋に申し立てたのでした。
浦上の庄屋 高谷官十郎はその大それた申し出に驚き、長崎代官 高木作右衛門に届け出ると、代官は長崎奉行の元へと走り、長崎奉行は幕府の処置伺いへ直ちに江戸へと向かいました。そして、慶応4年(1868)7月15日の明け方3時頃、長崎奉行所の捕り手達は、土砂降りの雨の中、浦上キリシタンの主要人物の寝込みを襲い、次々に逮捕。桜町の牢へと入れました。浦上四番崩れの始まりです。それまでにも「浦上崩れ」と呼ばれる弾圧はありましたが、一番から三番までは噂や密告に端を発した検挙でした。しかしこの四番崩れは、信仰を表明したことが原因となっての検挙でした。問題解決のないまま、翌年、江戸幕府は倒れ、明治新政府が樹立。明治新政府に引き継がれた末、「浦上一村総流配」となったのです。流配先の牢獄では、厳しい拷問の中、信仰を捨てるよう責め苦しめられました。
また、キリシタン禁教策を引き継いだ明治新政府の下、五島でも大きな弾圧が起こります。五島・久賀島の「牢屋の窄(さこ)」事件から始まり全五島に広がった五島崩れです。「牢屋の窄(さこ)」事件では、6坪(19.8u)の牢に約200人が押し込められ、8ヶ月もの間残酷な責め苦を受け42人が殉教しました。
当時、浦上の潜伏キリシタンの信仰の拠点となっていた4ヶ所の秘密教会跡地には、現在、信徒発見から100周年を迎えた記念に建てられた碑が残されています。
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サンタ=クララ教会堂跡(秘密教会跡)
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聖ヨゼフ堂の碑(秘密教会跡) |
一方、近年、五島・久賀島の「牢屋の窄(さこ)」事件の初期の殉教者である野浜力蔵という人物の墓石が発見されました。十字架と洗礼名、氏名が刻まれたその墓石の左右には、「死於猿浦獄中」「為天主教信仰」という文字が刻まれていたといいます。※猿浦=牢屋の窄のこと |
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★その頃の長崎★
明治元年(1868)前後の長崎の町には、近代化の波が押し寄せていました。安政の開国(安政5年/1859)により、長崎港には外国船の入港が増え、必然的に船の修理を行う技術や外国船に劣らない船を造る新しい技術、つまり造船業が求められていきます。しかし、すでに長崎には、江戸幕府が海軍創設を目的として安政2年(1855)に開設した海軍伝習所があり、その訓練船の故障や出入りする蒸気船修理のために機械設備を備えた施設が必要となったため、安政4年(1857)、「長崎鎔鐵所(後の長崎製鉄所)」が創設されていました。この長崎製鉄所の存在によって、長崎は全国に先駆けた近代技術の町となるのです。まさに明治元年、長崎の町の母なる川「中島川」に架かる橋の内、市街の中央に位置する重要な橋が、木橋から日本で最初の鉄橋(現在のくろがね橋)に架け替えられました。建設したのは長崎製鉄所。その頭取である本木昌造(近代活版印刷の祖)が監督施工しました。また、同年に完成したのが、グラバーらの尽力によって完成した洋式近代的スリップドック、小菅修船場です。明治元年――長崎の町は、新しい時代へと着実に歩みを進めていました。 |
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★キリスト教人物伝★ プチジャン神父(1829-1884)
復活キリシタンの心の支柱
信徒発見の歴史的瞬間に立ち会ったベルナール・プチジャン神父。彼は未だ外国人の入国が困難だった幕末に、パリ外国宣教会に入会し、日本への布教を志しました。文久2年(1862)横浜に上陸し、翌年、長崎入りしました。プチジャン神父は、先に長崎に到着していたフューレ神父とともに大浦天主堂の建設に尽力しました。また、文久2年、教皇ピオ九世によって西坂の殉教者26名が聖者に列せられましたが、プチジャン神父は、この日本二十六聖人の殉教の地を探すことに積極的だったといいます。そして、元治元年(1864)末、大浦天主堂は竣工し、翌年に献堂式が行われ、日本二十六聖人に捧げられます。天主堂の正面は、殉教の地、西坂の丘に向かっていました。そして、その1ヶ月後にプチジャン神父は信徒発見の奇跡に出会うことになります。その後起こった「浦上四番崩れ」を、プチジャン神父は、バチカン公会議出席のために出向いていたローマ滞在中に知りました。明治政府の信仰弾圧に対し、公使らと連携してその撤廃を求め尽力しました。明治6年(1873)キリシタン禁制の高札が撤去されると、長崎を拠点に、布教や組織の整備、日本人司祭の養成、教理書の印刷など、日本カトリック教会の発展に力を注ぎました。長崎の町に密かにキリスト教を信じる者がいると期待し大浦天主堂の建立に尽力した後、奇跡の「信徒発見」の場面に遭遇。禁教が強いられた長崎の町で、秘密教会に巡回し教理を授け、流配された信者の釈放に奔走したプチジャン神父は、明治17年(1884)、大浦の地で死去。大浦天主堂祭壇の右側壁面に蝋(ロウ)石版碑が埋め込まれていますが、これはプチジャン神父の墓碑です。そして、彼は今も祭壇の真下である地下に眠っておられます。 |

プチジャン神父像 |

プチジャン神父の墓碑 |
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