文・宮川密義


今回は原爆資料館から落下中心地〜平和公園〜浦上天主堂の“被爆中心地”を“歌さるき”してみます。主な長崎原爆・平和の歌はバックナンバーでも紹介しています。(本文中の青文字はバックナンバーにリンクしています)

(1) 長崎原爆資料館
(2) 原爆落下中心地公園
  長崎原爆資料館から原爆落下中心地公園にかけてのエリアには福田須磨子碑や不戦平和之塔、平和を祈る子の像、平和の母子像など、多くの石碑やモニュメントが並んでいます。石段を下りる右手に建つ「ナガサキ誓いの火・灯火台」の点火式では「燃えろ、誓いの火」が歌われました。“誓いの火”は毎月9日と、8月6日〜9日の9時〜17時にともされます。
(3) 平和公園
  平和都市・長崎のシンボル、平和祈念像がそびえる平和公園では毎年8月9日の長崎原爆の日に、長崎市主催の平和祈念式典が開かれ、長崎市長が平和宣言を全世界に向けて発信しますが、式典ではかつて「平和は長崎から」が歌われ、被爆50周年からは「千羽鶴」が歌われています。このエリアにも折鶴の塔、動員学徒の碑(長崎の鐘)、戦災復興記念碑、平和の泉のほか、14カ国から贈られた記念碑やモニュメントが建ち並んでいます。
(4) 城山小学校・平和祈念館
  城山小学校は旧城山国民学校。鉄筋コンクリート3階建ての校舎は原爆で倒壊、児童ら多くの犠牲者を出しましたが、被爆校舎の一部を修復して「城山小平和祈念館」として保存、写真や遺品を展示して平和学習に役立てています。正面には「少年平和像」が建ち、その除幕式以来「子らのみ魂よ」が児童たちによって歌い継がれています。また校庭には学徒動員として同校で働いているとき爆死した娘を偲んで母親が植えた桜が「嘉代子桜」と名付けられ、それをテーマにした歌も出来ました。
(5) 山里小学校
  山里国民学校でも3階建ての校舎が原爆で全壊、多くの犠牲者を出しました。近くで保養中の永井隆博士の助力で「あの子らの碑」が建ち、永井博士作詞の「あの子」が児童たちによって歌い継がれています。また永井博士が贈った桜の苗木1,000本が同絞と城山小などに植えられた“永井千本桜”が毎春、美しい花を咲かせています。
(6) 如己堂・永井隆記念館
  長崎医科大学病院で被爆した永井隆博士は重傷を負いながら被爆者の救護に当たり、小さな家「如己堂」で療養の傍ら執筆活動を続けました。同じ敷地に建つ「永井隆記念館」には博士の遺品や写真、著作などが展示されています。永井博士の著作に取材した「長崎の鐘」は藤山一郎の歌で大ヒットしましたが、永井博士を歌った歌も多く作られました。また、原爆で亡くなった緑夫人の部屋の軒下にあった南天が如己堂の脇に植えられており、永井博士が作詞した「南天の花」もレコードになっています。
(7) 浦上天主堂
  東洋一の大教会といわれた浦上天主堂は原爆で倒壊、約8,500人の信徒が爆死しました。昭和21年(1946)に木造の仮聖堂、同34年(1959)に新浦上天主堂が完成、ローマ法王パウロ二世訪日の前年(昭和55年)に改装され、赤レンガの美しい天主堂からは、被爆したアンジェラスの鐘の2基の1つが美しい音色を響かせています。永井博士の著書「長崎の鐘」、そして同名の歌が大ヒット、同名の映画も出来ました。
アンジェラスの鐘は歌に数多く出ていますが、その代表曲が「長崎の鐘」で、天主堂前の道路のガード壁面にはその楽譜の一部が刻まれています。


浦上天主堂下、天主公園前の
道路の ガード壁面に彫られた
「長崎の鐘」の楽譜


平和原爆資料館から
原爆落下中心地公園へ下る坂段に建つ
「誓いの火」灯火台

【原爆落下中心地 周辺マップ】


*このエリアの歌から

長崎の原爆・平和をテーマにした歌は現在108曲出ています。このサイトではバックナンバーで下記のように17曲を紹介しましたが、ここではそれ以外の話題曲を拾ってみました。(順不同)
★バックナンバーで紹介した歌
��10「原爆・平和の歌」
(1)「長崎盆踊り」(霧島昇、音丸・歌) (2)「長崎の鐘」(藤山一郎・歌)
(3)もう一つの「長崎の鐘」(藤原義江・歌) (4)「平和は長崎から」(純心女子学園高校生・歌) 
(5)「ふるさとの空の下で」(丸山明宏・歌)
��34「続 原爆・平和の歌(上)」
(1)「あの子」(山里小学校生徒・歌) (2)「子らのみ魂よ」(城山小学校生徒・歌)
(3)「南天の花」(辻 輝子・歌) (4)「泣くな長崎」(杉野正男・歌)
(5)「白い血」(松山昌弘・歌) (6)「ふみしめて歩くなよ」(山田伊久麿・歌)
��35「続 原爆・平和の歌(下)」
(1)「ピース・フロム・ナガサキ」(ピース・セブン・歌) (2)「祈り」(さだまさし・歌)
(3)「燃えろ、誓いの火」(寺井一通・歌) (4)「アンジェラスの鐘」(梅原司平・歌)
(5)「平和の旅へ」(「平和の旅へ」合唱団・歌) (6)「リボン〜Ribon」(TATSUMAKI・歌)

如己堂(左)と永井隆記念館


浦上天主堂の前庭に安置されている
被爆聖人像


1.「千羽鶴」
(平成7年=1995年、横山鼎・作詞、大島ミチル・作曲、純心女子学園高校生・歌)


長崎市の被爆50周年記念歌です。
平成7年の被爆50周年を機に、長崎市が記念歌の歌詞を公募。応募作1,947点の中から、千葉県の島根大学名誉教授、横山鼎(よこやま・かなえ)さん(68歳)の作品を採用しました。
作品は、原爆の悲しみ、犠牲者への慰霊や平和への熱い思いを赤や青、緑、紫などの色紙に込め、千羽鶴を一羽ずつ折っていく様子が表現されています。
曲は長崎出身の作曲家で国立音楽大学講師の大島ミチルさんに依頼して、重厚な記念歌が誕生しました。
同年5月12日開かれた被爆50周年記念講演会の際、純心女子高校音楽部員の合唱で初めて披露され、同年8月9日に平和公園で開かれた長崎市主催の平和祈念式典から、それまで歌い継がれた「平和は長崎から」に代わる歌として、「平和は長崎から」と同じ純心女子高校の生徒さんによって歌われています。
長崎市ではCD1,000枚を制作して学校などに配布、普及を図りました。


記念歌発表会で斉唱する
純心女子高校生


「千羽鶴」を作詞した横山鼎さん(右)と
作曲した大島ミチルさん(左)


2.「この子を残して 〜永井隆博士の著によせて」
(昭和24年=1949、高橋掬太郎・作詞、利根一郎・作曲、小畑 実・歌)


「長崎の鐘」など多くの著作を残した永井博士は昭和25年5月に亡くなりましたが、「永井隆博士の著によせて」のサブタイトルを付けたこの歌は、この世に別れを告げる日を前にした永井博士の心情をつづった歌です。
昭和23年、軽快な「長崎のザボン売り」で大ヒットを飛ばした小畑実(おばた・みのる)が、翌24年、2人の幼子を残して黄泉の国に旅立つ永井博士の悲しみを切々と歌っています。
この歌のほか、永井博士を歌ったものは「いとし吾が子」など数曲出ています。


如己堂で「長崎の鐘」のレコードを聴く
永井隆博士父子と
見舞いの式場隆三郎医学博士
(永井隆記念館提供)


3.「浦 上」
(昭和58年=1983年、寺井一通・作詞、作曲、歌)


寺井一通(てらい・かずみち)さんは長崎出身のシンガーソング・ライターで、反核・平和の歌をはじめ、いろいろな訴訟支援の歌、雲仙普賢岳災害被災者救援の歌、生活の歌、地域の歌などを数多く作りました。なかでも長崎原爆、反戦の歌は50曲を超えています。
寺井さんは被爆者でも被爆二世でもありませんが、「長崎で生まれた以上、原爆を素通りすることは出来ない。被爆の実相に向き合い、それをきちんと伝えなければならない」という信念の下に、歌作りに取り組みました。その原点となるのがこの歌。
長崎市で生まれ育ち、高校を卒業するまで被爆の惨状と被爆者の苦しみが身にしみて、上京して歌手生活に入っても胸にはいつも「浦上」がありました。

8月9日の夜、浦上川で行われる
原爆殉難者慰霊の万灯流し
(松山町の簗橋付近)
そして、昭和54年、寺井さん30歳の時、ある放送局の番組で被爆者に取材する機会があり、被爆者のナマの声に接して、その思いは一気に燃え上がり、「浦上」をまとめあげたそうです。
作品は、原爆によって母を亡くした子供、息子を亡くした母親、絶望の淵にある被爆者の姿をストレートに綴っています。その後LPアルバム「雲ものがたり」で初めて発表して以来、テープやCD、そしてステージで、最も多く歌い続けている犠牲者への鎮魂歌、平和希求の歌です。


4.「祈り〜母と娘の詩(うた)」
(平成16年=2004年、稲澤陽三・作詞、寺井一通・作曲、宮崎つさえ、荒木孝子・歌)


長崎市の城山小学校に植えられている嘉代子桜(かよこざくら)をテーマにした歌。
林嘉代子(はやし・かよこ)さんは県立高等女学校4年で15歳の時、学徒報国隊員の一人として城山国民学校(今の城山小学校)で働いていましたが、昭和20年8月9日の原爆で亡くなりました。
昭和24年、嘉代子さんの母親、津恵(つえ)さんが、ひとり娘の死を悼んで桜の苗木50本を城山小に贈って校庭に植えました。“嘉代子桜”は今では数本しか残っていませんが、昭和41年(1966)には嘉代子桜の由来と平和の願いを語り継ごうと“嘉代子桜の碑”も建てられました。
この歌の作詞をしたのはNPO「ながさき県民医療福祉協会」副理事長の稲澤陽三(いなざわ・ようぞう)さん。稲澤さんの父・源二郎さんは嘉代子さんの小学生時代の担任教師でした。陽三さんは父・源二郎さんの自分史を読んで詞を書き、長崎で活躍している寺井一通さんに作曲を依頼して完成させました。

千羽鶴も掛けられる
満開の“嘉代子桜”
寺井さんは長崎の宮崎つさえさんと荒木孝子さんに歌ってもらい、日本被団協、長崎被災協と制作したミニアルバム「被爆60年〜明日こそきっと」で発表。平成17年4月3日には城山小学校で、この歌を含めた15曲の自作の平和の歌のコンサートを開きました。


5.「ハイヒールの詩(うた)」
(平成18年=2006年、寺井一通・作詞、作曲、平野実奈、迎真理子、能美沙織・歌)


長崎原爆で歩くことが不自由になった長崎の被爆者、松谷英子(まつや・ひでこ)さんの「私もみんなと同じように赤いハイヒールで街を歩きたかった」という思いが込められた歌です。
松谷さんは3歳のときに被爆。爆風で飛んできた瓦で頭に大けがを負い、後遺症で右半身が不自由になり、辛い青春時代を過ごしました。長崎在住のシャンソン歌手、寺井一通(てらい・かずみち)さんが松谷さんの思いを受け止めて作詞、作曲。公募で選ばれた平野実奈さん(14歳・佐世保市)、迎真理子さん(22歳・佐世保市)、能美沙織さん(18歳・北九州市)の3人が歌っています。
平成16年に結成された被爆者のコーラスグループ「被爆者歌う会・ひまわり」も参加、この歌も含め7曲を収録したCDアルバム「ハイヒールの詩〜たくさんの愛にささえられて〜」が今年7月1日に発売されました。


「ハイヒールの詩」のCD表紙
7曲とも被爆者の思いを込めたナレーションでつながれおり、被爆61年目の長崎から発信した『人間賛歌』ともいうべき作品です。

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