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2.「この子を残して
〜永井隆博士の著によせて」
(昭和24年=1949、高橋掬太郎・作詞、利根一郎・作曲、小畑
実・歌) |
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「長崎の鐘」など多くの著作を残した永井博士は昭和25年5月に亡くなりましたが、「永井隆博士の著によせて」のサブタイトルを付けたこの歌は、この世に別れを告げる日を前にした永井博士の心情をつづった歌です。
昭和23年、軽快な「長崎のザボン売り」で大ヒットを飛ばした小畑実(おばた・みのる)が、翌24年、2人の幼子を残して黄泉の国に旅立つ永井博士の悲しみを切々と歌っています。
この歌のほか、永井博士を歌ったものは「いとし吾が子」など数曲出ています。
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如己堂で「長崎の鐘」のレコードを聴く
永井隆博士父子と
見舞いの式場隆三郎医学博士
(永井隆記念館提供) |
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3.「浦 上」
(昭和58年=1983年、寺井一通・作詞、作曲、歌) |
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寺井一通(てらい・かずみち)さんは長崎出身のシンガーソング・ライターで、反核・平和の歌をはじめ、いろいろな訴訟支援の歌、雲仙普賢岳災害被災者救援の歌、生活の歌、地域の歌などを数多く作りました。なかでも長崎原爆、反戦の歌は50曲を超えています。
寺井さんは被爆者でも被爆二世でもありませんが、「長崎で生まれた以上、原爆を素通りすることは出来ない。被爆の実相に向き合い、それをきちんと伝えなければならない」という信念の下に、歌作りに取り組みました。その原点となるのがこの歌。
長崎市で生まれ育ち、高校を卒業するまで被爆の惨状と被爆者の苦しみが身にしみて、上京して歌手生活に入っても胸にはいつも「浦上」がありました。 |

8月9日の夜、浦上川で行われる
原爆殉難者慰霊の万灯流し
(松山町の簗橋付近) |
そして、昭和54年、寺井さん30歳の時、ある放送局の番組で被爆者に取材する機会があり、被爆者のナマの声に接して、その思いは一気に燃え上がり、「浦上」をまとめあげたそうです。
作品は、原爆によって母を亡くした子供、息子を亡くした母親、絶望の淵にある被爆者の姿をストレートに綴っています。その後LPアルバム「雲ものがたり」で初めて発表して以来、テープやCD、そしてステージで、最も多く歌い続けている犠牲者への鎮魂歌、平和希求の歌です。 |
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4.「祈り〜母と娘の詩(うた)」
(平成16年=2004年、稲澤陽三・作詞、寺井一通・作曲、宮崎つさえ、荒木孝子・歌) |
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長崎市の城山小学校に植えられている嘉代子桜(かよこざくら)をテーマにした歌。 |
林嘉代子(はやし・かよこ)さんは県立高等女学校4年で15歳の時、学徒報国隊員の一人として城山国民学校(今の城山小学校)で働いていましたが、昭和20年8月9日の原爆で亡くなりました。
昭和24年、嘉代子さんの母親、津恵(つえ)さんが、ひとり娘の死を悼んで桜の苗木50本を城山小に贈って校庭に植えました。“嘉代子桜”は今では数本しか残っていませんが、昭和41年(1966)には嘉代子桜の由来と平和の願いを語り継ごうと“嘉代子桜の碑”も建てられました。
この歌の作詞をしたのはNPO「ながさき県民医療福祉協会」副理事長の稲澤陽三(いなざわ・ようぞう)さん。稲澤さんの父・源二郎さんは嘉代子さんの小学生時代の担任教師でした。陽三さんは父・源二郎さんの自分史を読んで詞を書き、長崎で活躍している寺井一通さんに作曲を依頼して完成させました。
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千羽鶴も掛けられる
満開の“嘉代子桜” |
| 寺井さんは長崎の宮崎つさえさんと荒木孝子さんに歌ってもらい、日本被団協、長崎被災協と制作したミニアルバム「被爆60年〜明日こそきっと」で発表。平成17年4月3日には城山小学校で、この歌を含めた15曲の自作の平和の歌のコンサートを開きました。 |
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5.「ハイヒールの詩(うた)」
(平成18年=2006年、寺井一通・作詞、作曲、平野実奈、迎真理子、能美沙織・歌) |
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長崎原爆で歩くことが不自由になった長崎の被爆者、松谷英子(まつや・ひでこ)さんの「私もみんなと同じように赤いハイヒールで街を歩きたかった」という思いが込められた歌です。 |
松谷さんは3歳のときに被爆。爆風で飛んできた瓦で頭に大けがを負い、後遺症で右半身が不自由になり、辛い青春時代を過ごしました。長崎在住のシャンソン歌手、寺井一通(てらい・かずみち)さんが松谷さんの思いを受け止めて作詞、作曲。公募で選ばれた平野実奈さん(14歳・佐世保市)、迎真理子さん(22歳・佐世保市)、能美沙織さん(18歳・北九州市)の3人が歌っています。
平成16年に結成された被爆者のコーラスグループ「被爆者歌う会・ひまわり」も参加、この歌も含め7曲を収録したCDアルバム「ハイヒールの詩〜たくさんの愛にささえられて〜」が今年7月1日に発売されました。
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「ハイヒールの詩」のCD表紙 |