長崎原爆、平和をテーマにした歌は約90曲ありますが、その中から話題になった歌を紹介します。
1.「長崎盆踊り」
(昭和22年、小川流太郎・作詞、古関裕而・作曲、霧島 昇、音 丸・歌)
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原爆2周年に当たる昭和22年(1947)8月9日の夜、市民グラウンド(今の市公会堂の所)で開かれた市連合青年団主催の「長崎平和盆踊り大会」で披露された歌ですが、歌の誕生までには1人の青年の血のにじむような努力がありました。
本多正邦さん(当時28歳)がその人。
ニューギニアから復員してみると、浜口町の実家は跡形もなく、肉親も亡くなっていました。
途方に暮れた本多さんは一念発起、市民を勇気付け原爆犠牲者の供養にもなる盆踊り大会を立案しました。
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市民グラウンドで開かれた
長崎平和盆踊り大会 |
青年団活動の中で歌詞を公募する一方、レコード化のために寝食を忘れて奔走、東京で活躍する代議士や映画監督らの経済的な協力を得たほか、熱意に賛同したレコード会社の肝いりで、著名な作曲家と歌手のゴールデン・メンバーでレコード化が実現しました。
また地元長崎でも本多青年の心意気に実力者も2段ヤグラを造って協力。
集まった約3万人の市民は浴衣姿で夜遅くまで踊り続けました。
昭和38年(1963)には扇ひろ子、大下八郎の歌で再吹き込みのレコードも作られ、盆踊りの季節になると、今も多くの人々が踊り継いでいます。
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2.「長崎の鐘」(昭和24年、サトウハチロー・作詞、古関裕而・作曲、藤山一郎・歌)
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3.もう一つの「長崎の鐘」(昭和24年、植本一雄・作詞、作曲、藤原義江・歌)
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作詞、作曲の植本一雄さんは当時、東京の暁星学園中学の生徒でした。
永井博士の幼い兄妹(誠一さんと茅乃さん)を手紙で励ましていましたが、余命いくばくもない永井博士、そしていずれは2人だけになる兄妹の行く末を案じてこの歌を作ったそうです。
声楽家・藤原義江さんが吹き込みましたが、レコードは藤山一郎さんの「長崎の鐘」の2ヵ月後の昭和24年(1949)8月に発売されました。
植本さんは永井博士の死後も歌や手紙で兄妹を励ましていましたが、レコードから3年後、高校部在学中に病気で亡くなりました。
4.「平和は長崎から」
(昭和24年、島内八郎・作詞、木野普見雄・作曲、純心女子学園高校生・歌)
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昭和24年(1949)、長崎市では全市民の投票で90%の賛成を得て、特別法『長崎国際文化都市法』が制定されました。
原爆で妻子3人を失い、自ら原爆症に苦しんでいた木野普見雄さん(当時、長崎市議会事務局長)は特別法の制定を機に、原爆殉難者の霊を慰めるとともに、市民の平和意識高揚に役立たせようと、市立博物館の学芸員で歌人でもある島内八郎さんに作詞を頼み、自ら作曲してこの歌を完成させました。
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平和祈念式典で斉唱する
純心女子高校の皆さん |
同24年8月9日の平和祈念式典の序幕に浦上天主堂聖歌隊の斉唱で発表。
昭和31年(1956)から平成6年(1994)までは、純心女子高校生の皆さんが平和祈念式典で歌い継ぎました。
被爆50周年の平成7年の平和祈念式典からは公募で採用された「千羽鶴」が歌われています。
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5.「ふるさとの空の下で」(昭和40年、丸山明宏・作詞、作曲、歌)
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