文・宮川密義


1.「ピース・フロム・ナガサキ」
(昭和50年=1975、ピース・セブン・作詞、作曲、歌)


長崎の被爆二世7人を含む8人の若者たちが組織したフォークグループ「ピース・セブン」が、原爆への怒りと被爆二世の心情を訴えた歌3曲のうちの1曲です。
昭和49年(1974)、長崎大学経済学部の学生を中心に“反戦フォーク運動”を起こし、同年8月に長崎造船大(現・長崎総合科学大学)の学生や社会人に呼びかけ、8人構成で発足しました。
「ナガサキ・フォーク連盟」の名で、大阪や沖縄などにも出かけて訴えたほか、被爆30周年を迎え、この歌と「平和への行進」「被爆二世の心」の3曲を入れたレコードを作り、アピールしました。
被爆の心情をめぐっては“怒りの広島”“祈りの長崎”の対比が浮かび上がり、“ノーモア・ヒロシマ”と “ピース・フロム・ナガサキ”のキャッチフレーズも使われました。
この歌には原爆への怒りと平和への祈りが込められています。


「ピース・フロム・ナガサキ」など
3曲を収録したレコード


2.「祈り」
(昭和58年=1983、さだまさし・作詞、作曲、歌)


さだまさしさんのデビュー10周年記念LP「風のおもかげ」に収録された歌で、後、CDアルバムに収録。最近では平成15年(2003)4月発売の「償(つぐな)い〜SONGS OF LIFE」で、「広島の空」などとともに聴くことができます。
生命の大切さや尊さを思い出し、そして忘れないでほしいという強いメッセージが盛り込まれた曲の一つです。
さださんは昭和62年(1987)から広島原爆の日の8月6日夜、被爆地・長崎から平和を発信するイベントとして、毎年稲佐山公園野外ステージで平和コンサート「長崎から」を開いていますが、そのコンサートのフィナーレに、この「祈り」を歌うようになりました。
歌詞の後はハミングになり、観客全員もそれに合わせて歌う中、コンサートの幕が下りるラストナンバーになっています。


「2004夏 長崎から〜」で熱唱するさだまさしさん
(ナガサキピースミュージアム提供)


3.「燃えろ、誓いの火!」
(昭和60年、寺井一通・作詞、作曲、歌)


寺井一通(てらいかずみち)さんは長崎を中心に活躍しているシンガーソング・ライターで、反核・平和の歌をはじめ、いろいろな訴訟支援の歌、生活の歌、地域の歌などを作りました。
昭和60年(1985)に東京の音楽仲間のカンパと協力で出版したテープ「ラブソング・フォー・ピース」も大変話題を呼びました。
長崎を最後の被爆地に…との悲願を込めた市民運動「誓いの火灯火台建設運動」に呼応したもので、売り上げを建設運動に寄金する歌声活動も展開しました。
灯火台は平和への願いを込めた各地からの寄付金で昭和62年(1987年)に完成、毎月9日に平和公園の一角で誓いの火をともし続けています。
テープにはタイトル曲「Love Song for Peace」や「あの日から」「長崎を忘れない」など11曲を収録していますが、なかでも「燃えろ、誓いの火!」は“燃えろ 燃えろ…”の力強いフレーズのリフレーンで、コンサートでも特に盛り上がりを見せました。
また、寺井さんは毎月9日に「ながさき うたの日コンサート」を開き、平和を訴え続けています。


灯火台にともされた「誓いの火」
(2004年6月6日)


「うたの日」で歌う寺井さん


4.「アンジェラスの鐘」
(平成5年=1993、梅原司平・作詞、作曲、歌)


梅原司平(うめはらしへい)さんは富山県出身のシンガーソング・ライター。ギターを弾きながらコンサート活動を続けるうちに、広島、長崎とのつながりが深まりました。
広島をテーマにした歌は「ヒロシマが泣いている」など3曲を制作。長崎にも毎年訪れていましたが、長崎をテーマにした曲はこの歌が最初で、ファンからの強い要望に応えたものでした。
テーマは平和のシンボルとして教会の鐘を選び、夏の長崎をソフトタッチのフォーク調で、歌いやすく表現しています。
平成6年(1994)1月、CDアルバム「空を飛ぶ夢を見なくなったね」で発表。同年3月にはファンらによる実行委員会の主催でコンサートが開かれ、長崎でのお披露目となりました。


長崎のコンサートで歌う
梅原司平さん(平成6年1月)
学校や集会などで歌われる「折り鶴」も梅原さんの作品で、広島、長崎の原爆をテーマにしています。
また梅原さんは交通事故で障害を負った少女の話を基にした「生命のうた」、いじめや不登校に悩んでいる子どもたちへの思い「ここへおいで」なども歌い、学校や教育関係の公演が増えました。


5.「平和の旅へ」
(平成5年=1993、園田鉄美・松下進・松永真司・作詞、園田鉄美・松永真司・作曲、
「平和の旅へ」合唱団・歌)


被爆地長崎を代表する語り部として活動した故渡辺千恵子(わたなべちえこ)さんが被爆の絶望から立ち上がり、車椅子で核兵器廃絶を訴える「平和の旅」に出かけるようになるまでを、8曲の合唱と語りで構成したものです。
作品ができたのは被爆40周年の昭和60年(1985)で、同年7月の初演から昨年11月までに133回目を数え、聴いた人たちは9万人、演奏に参加した歌い手の数も延べ7,700人にのぼっているそうです。
CDは平成5年8月に制作され、タイトル曲のほか「苦しみの日々」「娘よ」「平和の鐘を鳴らそう」など8曲が歌われています。
渡辺さんは16歳のとき、爆心地から2.5Kmの三菱電機製作所で学徒動員中に被爆、鉄骨で腰を砕かれましたが、下半身が不自由な身にもかかわらず、車椅子の上から国内外に核兵器廃絶と被爆者の実態を訴え続けました。



「平和の旅へ」のCD表紙
写真は故渡辺千恵子さん

組曲の構成の中心となった園田鉄美(そのだてつみ)さんは県庁に勤めるかたわら、長崎センター合唱団の団長として活躍。作曲でも平和讃歌、労働歌、地域おこしの歌、子供の歌などこれまでに200曲近い作品を生み続けています。


2002年11月、北九州市で開かれた日本うたごえ祭典で
250人による「平和の旅へ」合唱
(うたごえ新聞社提供)


6.「リボン〜Ribbon」
(平成15年=2003、槙 健一・作詞、作曲、TATSUMAKI・歌)




「リボン〜Ribbon」のCD表紙

長崎市出身の歌手、槙健一(まきけんいち)さんが被爆地長崎から平和を希求する心を歌い上げた作品です。
被爆二世だった槙さんは長崎などでコンサート活動をするかたわら、平和をテーマにしたロックコンサートを開催していましたが、病気のため平成14年(2002)9月に32歳で亡くなりました。
この歌は長崎市で平成15年(2003)11月22日から24日まで開かれた「第2回核兵器廃絶−地球市民集会ナガサキ」のテーマソングに取り上げられ、フィナーレで参加者800人全員が斉唱。実行委員会が槙さんへの追悼の思いを込めてCDを2,000枚作りました。
平成7年に出したCDアルバムにも収められていますが、弟の友博さんが参加するロックバンド「TATSUMAKI」(リーダー・宮崎達朗さん)のコーラスや英語バージョン、同メンバーの葉月さんのソロも収録しました。
「TATSUMAKI」は米NGO(反核非政府組織)の誘いで、今年5月1日にニューヨークで開かれた同NGO主催の集会に参加してこの歌を熱唱、大きな歓声と拍手を受けました。


ニューヨークのNGO集会で歌うTATSUMAKI
(宮崎達朗さん提供)


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