長崎ハイカラ女子教育の歴史


玉木学園創立者・玉木リツ

開国後の明治以降、長崎の地に築かれた「女子教育」という概念。多くの宣教師らによって吹き込まれた新しい風によって誕生した女子校の歴史と、その創設に尽力した人々の思想、生き様を紹介。


ズバリ!今回のテーマは
「今も根付く!?長崎女子力のルーツを辿る!」なのだ




前回のナガジン!特集では、安政の開国直後の長崎の町を取り仕切った名奉行 岡部駿河守(おかべするがのかみ)の功績をご紹介した。彼が創設した「英語伝習所」は、開国当初、日本人への布教が許されていなかった外国人宣教師達の良き就職場所となる。そして、彼ら宣教師達が、長崎の町に新たな風を送り込むことに――。それは、現代では日本各地に数多く点在する「私学」の誕生。私学、いわゆる私立(わたくしりつ)のミッション・スクールは、安政5年(1858)の開国を皮切りに来崎を果たしたプロテスタントの宣教師達が、この長崎の地でスタートさせたものだった――。

最初に長崎に派遣されたのは、アメリカ監督教会(聖公会)の宣教師リギンズ。その後、後に日本聖公会初代主教となるC.M.ウィリアムズや近代日本建設の父といわれるフルベッキなど、プロテスタント教会の宣教師達だった。当初まだ日本人に対する布教活動は認められておらず、居留地内で礼拝を行うとともに、自ら日本語を学び、英語を希望者に教え、医療活動に従事していた。そして、明治6年(1873)の禁教令の高札撤去以降、医療、社会事業、教育活動を通じた布教活動が開始される。その中に、女子教育への取り組みもあった。ミッション・スクールの誕生は、それまでの我が国の教育に大きな変化をもたらすことになる。特に、「女子教育」に重きをおいた「女学校」の存在は、革命的だった。そんな「女子教育」誕生の流れと、それに力を注いだ女性教育者の生き方に迫ってみたい。

開国後、長崎に初めて建てられた教会堂は、居留地が正式開設される以前の安政6年(1859)に来崎していたアメリカ監督教会(聖公会)のC.M.ウィリアムズによって文久2年(1862)9月、東山手11番地に建設された英国教会堂。それは、日本初のプロテスタントの教会だった。
※2009.5月 ナガジン!特集「長崎異人館ストーリー」参照
※2004.9月 ナガジン!特集「長崎『坂』ストーリー」参照

やがて日本で唯一アメリカ監督教会の代表となったウィリアムズが長崎の地を離れると、その東山手の教会堂はイギリス聖公会のチャーチ・ソサエティ(CMS)が引き継いだ。

英国聖公会会堂跡
日本初のプロテスタント教会
英国聖公会会堂跡

しかしその頃、「浦上四番崩れ」の出来事で流れが大きく変わっていく――。このキリシタン迫害に対し、世界的非難を浴びた日本政府が、キリスト教に対して寛容な態度を見せはじめたのだ。やがて流罪となっていた浦上のキリシタン達が長崎に戻ってくると、英国教会CMSの初代代表として来崎したジョージ・エンソーの後任となったヘンダーソン・バーンサイド牧師が開いた「聖書研究会」に日本人の参加者がでてきた。そして、このバーンサイドが、明治7年(1874)初頭、英語のクラスとバイブル・クラスの設立を長崎県知事に申請するも断られてしまうが、東山手のCMSの一角に無料学校を開き、男子学生を教えた。しかし、現状に満足できなかったバーンサイドは、教会か学校を建てる目的で出島に土地を購入。そこにCMSの本部を設置した。しかし、バーンサイドは、病気でやむなく離崎することに。彼は、後継者に女子教育部門からの派遣者を希望していた。そこに訪れたのが、ハーバード・モンドレルとその婦人イライザ、そして、イライザ・グッドオールだった。
 

★イライザ・グッドオールの
ガールズ・トレーニング・ホーム

現在、出島に現存する出島神学校の建物は、明治10年(1877)初頭、モンドレルがCMS教会に隣接する出島十番に建設したアンデレ神学校(出島聖公会神学校)跡。日本最古のプロテスタント神学校である。明治12年(1879)には、日本人の全日普通校を開校し、朝はイライザ・グッドオールが、午後からは日本人信者の男性が指導した。

さて、そのイライザ・グッドオールが、同年、東山手3番地の自宅に女子塾「ガールズ・トレーニング・ホーム」(女子寄宿学校)を開校。初め10人程の女学生に英語と裁縫を指導した。モンドレルによる明治22年(1889)の報告によると、順調に生徒数が増加しているため、その頃には、20人から25人が寄宿できる大きさの学校が必要となっていた。

旧出島神学校
今も出島に現存する神学校時代の建物

ここで育った一人の生徒・小泉房女史の思い出の手記が残されている。

「塾生は毎朝六時起床。先づ第一に聖句の暗誦次に早祷(そうとう)、それから朝食、九時から十二時まで英語の勉強、午後一時より四時まで普通の勉強をして一日を終った。夜は年少者は八時、他は九時就寝、日曜日は降っても照っても出島の教会堂の鐘が礼拝の十五分前に打出すと、生徒は列をなし先生がしんがりをつとめられ、オランダ坂を降り、切通しを経て支那人邑(しなじんむら)の前を海に沿って教会堂へ着くと、先生は目で「静かに」と合図され、それより聖堂を出るまでは、なるべく音一つ立てないようにつとめることであった。」

明治25年(1892)には、「長崎女学校」と改称。イライザ・グッドオールは、高齢にも関わらず長年ひとりでこの女学校を担当した。翌年3月、イライザ・グッドオールは長い闘病生活ののち75才で他界。坂本国際墓地の墓石には、「具宇土留氏之墓」と刻まれている。
 

★ヘンリー・スタウトの
スタージス神学校(後の長崎梅香崎女学校)

長崎伝道の目的で宣教師を派遣した第2のプロテスタント団体は、改革派教会だった。その代表は、日本で最も知られるプロテスタントの宣教師、グイド・フルベッキだ。
※2002.3月 ナガジン!特集「長崎に眠る異国の人々」参照

彼の後任となったのは、ニュージャージー出身の新婚夫婦、ヘンリー・スタウトとその妻エリザベスだった。居留地外でのキリスト教布教が禁じられていた時代、スタウトもフルベッキ同様、広運館(長崎英語伝習所の後身)で英語を教えたが、その効果にためらいを感じ、やがて辞め、数人の青年に英語を教える。しかしこの時期、スタウトは長崎における女子教育の可能性について、ある土地役人に相談すると、役人はスタウト家で夫人が教える手配ならできるかもしれない、それが女学校のはじまりになるかもしれないと言ったという。スタウトはさっそく伝道局に二人の女教師の派遣を依頼した。「品と気骨のある女性を」と。

かくして、明治5年(1872)、スタウト家の小さな学校は、1日に1、2時間、10人の学生を対象とした教育がはじまった。翌年には早くも手狭になり町へと移転。ヘンリーは約30人の男子学生を担当。エリザベスは50人の女学生に裁縫・編物などを教えた。そんな矢先、日本政府のキリスト教黙許が決定する――。これで布教活動も前進。ただ、エリザベスの体調不良が理由で、女学校は開閉をくりかえし、女子教育に急速な発展は見られなかった。

スタウトは「教育は生活に役立つものでなくてはならない」というのが、教育方針だった。彼は日本人の女子にとって、英語教育は無益だと感じ、女子教育の西洋化を嫌った。そして、フェリス牧師宛の手紙に次のように綴っている。

「ミッションの学校は、ヨーロッパの企画を基に作られ、学科は主に英語だ。日本の家に囲まれた所に寄宿学校を建てる方が我々にとって良いのではないかと思う。そこで英語や日本の学問を学ぶだけでなく、学校を出て行く時、妻としてそして社会の一員として役立つようなことが学べる。」

明治20年(1887)、東山手の丘にスタウトの設計、工事監督を担当した2つの学校が完成した。ひとつは「スティール・アカデミー」と名付けられた男子校(東山学院)、そして、もうひとつは、「スタージス・セミナリー」と名付けられた女子校(スタージス神学校〈後の梅香崎女学校/現梅光学院・山口県〉)である。
※2002.9月 ナガジン!特集「グラバーが住んだ丘〜グラバー園・満足観光ナビ〜」参照

旧スチイル記念学校
グラバー園内に移設された東山学院の本館
 

〈1/3頁〉
【次の頁へ】


【もどる】