長崎ハイカラ女子教育の歴史

カトリック大司教区と修道女によって実現した女子教育の場もあった。

★ プチジャン神父が呼び寄せた4人のシスターの
聖心女学校

大浦天主堂において信徒発見の出来事に立ち会ったプチジャン神父は、浦上四番崩れで流罪となった人々の帰還を受け、女子教育と福祉事業のために、フランスに本部を置くショファイユの幼きイエズス修道会に修道女の来日を要請した。そして、明治10年(1877)、シスター・マリージュスティヌら4名の修道女が来崎。彼女達が長崎に来た最初の修道女であり、居留地大浦5番地に修道会支部が設立された。4人の修道女達は、カテキスタ(司祭を助け、洗礼希望者に教義を指導する人)養成学校に勤務し、フランス語を教授。「センタファンス託児所」を開設。このセンタファンスこそ、現存する「マリア園」である。

マリア園
現存するマリア園は、明治31年(1898)建造

明治23年(1890)には、浦上にも修道院を開設。また、クーザン司教の要請で長崎初のカトリック系小学校「浦上三成女児小学校」を創設する。そして翌年、大浦5番に宗教・国籍を問わず日本人と外国人が共に寄宿した「聖心女学校」を開設させたのである。センタファンスの子ども達もここに在学した。明治34年(1901)には、「清心女学校」と改称し、幼稚園と小学校が付属。外国人子女のための洋学科も併置されていたため、長崎の人々は「フランス学校」と呼んだという。ここは、明治期、長崎で唯一のカトリック系女学校だった。

以降、時は流れ、戦災のため休園していた「清心幼稚園」を改称し再開したのが、現在の「長崎信愛幼稚園」である。

明治以降、数々のミッション・スクールが林立した東山手の丘に、現在も存在する女学校がある。明治12年(1879)から実に130年余も、創立者が選んだ土地で、創立者が命名した校名のまま、その精神が受け継がれている学校とは――。

ナガジン!連載中「長崎の教会群 その源流と輝き――長崎の教会群とキリスト教関連遺産を世界遺産へ――vol.10 信仰の表明による復活と弾圧【弾圧】」
 

★エリザベス・ラッセルの
活水学院

明治12年(1879)、東山手16番に開かれたダッチ・リフォームド教会所有の平屋建てが、現在の活水学院のはじまりだった。生徒が一人もいない状態での開校を心配する周囲に、創設者のエリザベス・ラッセルは、「生徒は一人送られてきます」と、信仰心をあらわにした話は有名だ。

エリザベス・ラッセル
活水学院創立者・宣教師エリザベス・ラッセル
(1836〜1928)

ダッチ・リフォームド教会
開校時の校舎・16番館
(ダッチ・リフォームド教会宣教師館
として建てられたもの)

そして、それが現実のことに。エリザベス・ラッセルが唱えた高い精神性と知性、将来の自立を目指した最高の教育を日本の女子に授けたいとする熱い思いに心打たれた「官梅能」という23歳の女性が、入学を申し出たのだ。官梅家は、漢学者、書家としても有名な唐通事・林道栄(どうえい)を祖先に持つ家柄。能の父・栄太郎は、外国人居留地となった東山手の管理をしていた人物で、貿易商人・リンガー氏とも交際があり、能自身、外国人との交流がある環境で育ったと伝わる。たった一人の生徒からスタートした学校だったが、開校早々「西海新聞」に出した生徒募集広告により、生徒数は随時増え、半年後には、南山手14番オルト邸に移る。

官梅能
初めての生徒、官梅能

「西海新聞」の広告には、英語だけでなく、日本国民としての一般教養から、女子の手芸、音楽教育に至るまで「一つも不遺(のこさず)教授致すべく」と記された。

明治15年(1882)、東山手13番地の丘に建築中だった校舎が完成した。この時には、生徒数は43名に達していた。

「活水」という校名は聖書の中のヨハネによる福音書第4章第14節、イエスとサマリアの女との出会いの部分「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」というイエスの言葉からラッセルが名付けたものだ。
開校当時、ラッセルはすでに43歳。明治31年(1898)3月、ラッセルは校長を辞任し、ヤングに二代目校長を引き継いだ。しかし、校長職は退いただけで、教師としての仕事は続け、欠勤した教師の授業の代わりを勤めるなど、常に教師として働き続けた。そして、大正8年(1919)、82歳で帰国するまで、活水学院の発展のために尽力したのだった。

学校法人 活水学院 http://www.kwassui.ac.jp/

活水学院
現在の活水学院・活水女子大学
東山手キャンパス


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