長崎ハイカラ女子教育の歴史

さて、長崎における女子教育は、もちろんミッション・スクールの外国人宣教師達だけが切り開いてきたことではない。最後に、日本人の女子教育先駆者を紹介しよう。

日本人初!女子教育先駆者
笠原田鶴子
「目指すは長崎の女子教育改善!」

笠原田鶴子
鶴鳴学園創立者・笠原田鶴子(1864〜1905)
長崎における日本人初の女子教育者は、現在の鶴鳴学園の創立者である笠原田鶴子。しかし彼女は、新潟県西蒲原郡の出身。遠戚に岩倉具視公などがいる彼女は、東京の華族女学校を卒業すると、日本の貧弱な女子教育を改善するべく欧米教育の視察を思い立ち、出発の足がかりを求めて長崎へ。するとそこは多数の外国人経営の施設があり、英会話を学ぶには最適な場所だった。かくして明治28年(1895)9月、長崎滞在を決めた田鶴子は、東山手町の梅香崎女学校に勤務する。

しかし、基本的なものの考え方の違いから退職。長崎の女子教育を改善するべく、翌年、中島川沿いの民家を校舎に「長崎女子学院」を創設。最初の生徒はわずか2名。家庭主義、訓育主義、技芸の奨励という三つを教育理念に掲げ、学術や技芸の指導に当たった。その後、明治34年(1901)には、興福寺境内の一庵へ移転し、校名も田鶴子の「鶴」、長崎港の別称「鶴の港」にちなんだ詩経の一文の故事から命名。「私立長崎鶴鳴女学校」と改称する。国語、歴史、芸術、英語の他に礼法、和歌、裁縫、刺繍、育児、家政、珠算、簿記、当時の授業科目は、実に女子教育にふさわしい授業内容だ。現在は「長崎女子短期大学」「長崎女子高等学校」「長崎女子短期大学附属幼稚園」を持つ「鶴鳴学園」として発展を遂げている。


鶴鳴学園
現在の鶴鳴学園・長崎女子短期大学
弥生ケ丘キャンパス

学校法人 鶴鳴学園 http://www.kakumei.ac.jp/

 

女性の実業教育に献身した
玉木リツ
「目指すは女性の精神的、経済的自立!」

玉木リツ
玉木学園創立者・玉木リツ(1855〜1944)
女子実業教育を行う学校が、日本に少しずつ出来はじめた頃、長崎でいち早く長崎女子裁縫学校(現在の玉木学園)を創設したのが、玉木リツだった。リツは安政2年(1855)築町生まれ。はじめに就職したのは長崎学区公立上等長崎女児小学校の教員だったが、志を持ち上京。「東京男女洋服専門学校」で学びながら、洋服裁縫術や毛糸編物を、卒業後は、洋服工場で実地研究を積ながら縫箔、和洋裁縫の実技を学んだ。

明治24年(1891)東京府知事より全国小学校裁縫教員免状をもらうと、翌年には長崎へ戻り、早速磨屋町に「長崎女子裁縫学校」を創立。和洋裁の技術習得普及にあたったが「明朗堅実にして、習得した専門的知識技術を国家社会に役立てる有能な日本婦人の育成」を目指す建学の精神に基づき、後には裁縫の他に修身、習字、作法など、女子に必要な日常の知識技能を併せて教授し、女子の守るべき徳義を養い育てるに至った。度々改称、移転を繰り返し、現在は学園全体の男女共学化にあたり「玉木学園」となっている。共学ではあるが、リツが建学した当初の想い、「女性の精神的・経済的自立」を基盤に、今も教育理念には、女性にとって大切な生活の専門性と豊かな教養を身につけた、円満で時代にふさわしい女性の育成が掲げられている。リツの女子教育への思いは120年もの間、脈々と受け継がれてきている。


玉木学園
現在の玉木学園・長崎玉成高等学校

学校法人 玉木学園
http://www.tamaki.ac.jp/

玉木リツ像
敷地内で生徒達を見守る玉木リツ像
 


最後に--。
開国後、布教を目的に来崎した宣教師達は、布教がゆるされるまでの期間、「英語教師」として日本人の若者達に出会った。そして、日本人に、この長崎の地にふさわしい教育の在り方を追求し、日本女性の成長に尽力したのである。また、諸外国の教育、女性としての在り方を問うた日本人女性達も、女子教育のあるべき姿を追求し、その実現をはかった。先人達の足跡を辿ると、長崎の女性は数々の教育者の熱のこもった教育理念のもとに育まれてきたのだということを実感する。

参考文献
『長崎の女たち』長崎女性史研究会編(長崎文献社)、『長崎 活水の娘たちよ エリザベス・ラッセル女史の足跡…………』白浜祥子著(彩流社)、『長崎居留地の西洋人』レイン・アーンズ著/福多文子訳・完訳、梁取和紘訳(長崎文献社)、『活水学院百年史』活水学院百年史編集委員会編(活水学院)


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