長崎の気になる木

長崎は、かねてから海と山、どちらも間近にある自然豊かで風光明媚な土地柄。長崎港に入港する外国船も、緑したたる木々に覆われた美しい風景を目にしながら、舵を取ってきたという。安政の開港以後、入港する船が目印にしていた特別の木があった。グラバー邸(旧グラバー住宅)にそびえ立っていた「一本松」だ。グラバーも、この松を気に入り、自らの邸宅にも「一本松」と名付けていた。残念ながら今はもう存在しない。しかし、現在の邸宅の前にも気になる木が!
力強く隆々と伸びた蘇鉄だ。この蘇鉄は、薩摩藩主・島津久光候がグラバー邸の新築記念に贈った由緒ある古木なのだ。幕末、薩摩や長州と祖国イギリスを結んだグラバーの功績を物語る木が、今も南山手の丘に息づいている。

※2002.9月 ナガジン!特集「グラバーが住んだ丘〜グラバー園・満足観光ナビ」参照

グラバー邸前の蘇鉄

さて、海外との関わりが深い長崎の土地柄から、諸外国より渡って来た木々というのも数々ある。

ジャカルタ渡り

出島のデジマノキ
出島で唯一、高くそびえる「デジマノキ」は、もちろん通称。ナンヨウスギ科の常緑高木で、学名はアガチス・ダマーラ。主に東南アジア一帯に自生し、塗料原料のコパールを意味するコパールノキともいうそうだ。川原慶賀が描いた出島の絵には描かれていないことから、幕末の頃、インドネシアのバタビア(現在のジャカルタ)からオランダ人が持ち込んだ幼木が育ったものだという。長い間、出島の歴史を見守ってきたこの木の子孫が、ミニ出島周辺に挿し木されスクスクと育っている。樹高10m、胸高幹囲1.2m。原産地では高さ45m、幹の直径4mの大木にも育つというから、まだまだ成長過程といえるのだろうか。 原産地でも生長は遅く、高さ10m、幹囲1.5mになるには100年を要するという。いずれにせよ、日蘭修交の歴史を語る貴重な記念樹。昭和41年(1966)に県の天然記念物に指定され、今も出島のシンボルとしてそびえ立っている。 出島のデジマノキ
 

中国渡り

植木の里・古賀のラカンマキ
地区全体が庭園といえる古賀の松原。古賀植木は古く、元禄年間(1688〜1703)には、島原・平戸など県内各地に出荷。天保年間(1830〜1843)になると、唐人屋敷や出島での販売が許可されて、中国、オランダへ、安政に入るとイギリス、フランス、アメリカ、明治にはロシアへと販路を広げていった。そんな中、海外から渡って来た木も当然ある。さるくコースの散策ポイントにもなっている“赤瀬邸”の庭園には、樹齢約600年、高さ約10mを誇る日本一のラカンマキがそびえ立つ。古賀植木がはじまったといわれる元禄2年(1689)に、中国の浙江省から移植された名木だという。松原において、このラカンマキはシンボル的存在。赤瀬邸はこのラカンマキを主木とした枯山水庭園。この主を母樹とした挿し木で多くの植木も生産されているのだとか。幹周り3.90m、枝張り12m、きれいに手入れの行き届いたりっぱな日本一のラカンマキである。 古賀のラカンマキ
※2009.2月 ナガジン!特集「春はほのぼの。東長崎巡行」参照
 

上海渡り

長崎公園のトックリの木
長崎の町の氏神様、諏訪神社を取り巻く「諏訪の杜」には、以前「長崎のお宝」として「六角道」と呼ばれる道路の中央に立つ御神木を紹介した。しかし、明治7年(1874)に諏訪の杜の中に築かれた長崎公園(諏訪公園)には、数々の歴史ある木々がそびえる。そのひとつが、珍しい名のトックリの木。幹の下部がふくらんだ、まさしく「トックリ」の木。命名者は長崎大学名誉教授だった故外山三郎先生だ。本名はヤナギバゴウシュアオギリで、和名では、いかにも!というツボノキ。学名をブラキキトン・ルペストリスという。原産地はオーストラリアだが、昭和7年(1932)、上海で造園業「松風園」を営んでいた植木の里・古賀出身の松田八百吉氏から寄贈された。この木、日本で最大級の大きさに生長しているらしく、亜熱帯以外の屋外でここまで大きく生長するのはとっても珍しいことなのだとか。平成16年には市の天然記念物の指定をうけている。それにしても、ボディのふくらみは、実際に養分を貯えているというところが実にオモシロイ!
長崎公園のトックリの木
※2008.12月 ナガジン!長崎のお宝「ご神木の連なる道(通称:六角道)」参照
 

ジャワ渡り

西山神社のザボンの木
諏訪の杜を抜け、諏訪神社から北方向の高台へ歩くこと15分。そこには「元日桜」とも呼ばれる緋寒桜(市指定文化財)でも有名な神社がある(ちなみに、この緋寒桜の見頃は1月上旬から2月上旬にかけて。今年は遅咲きなので、節分頃が見頃となりそう。)。ここが、日本におけるザボン発祥の地・西山神社(西山本町)。

西山神社の緋寒桜
小さく可愛い花

ブンタンとも呼ばれるがザボン。寛文7年(1667)、その種がジャワから唐船によって持ち込まれ、ここ西山神社の境内に播かれたのだった。なぜにこの神社だったか、といえば、この神社を創建した唐通事の廬 草拙(ろ そうせつ)が、唐船主から種を譲り受けたから。それを境内に蒔いて成長させたものがすべてのはじまり。今でも境内には、高さ5m程の当時から数えて4代目の原木が現存している。ちなみに初代のザボンの木は100年近く生き、その間生まれた新たな種子が長崎周辺や島原半島、鹿児島などへと巣立って行ったとか。長崎名菓「ザボン漬け」は、唐船やオランダ船に乗ってやってきた「ザボン」と「砂糖」の出会い菓子というわけだ。

 西山神社のザボンの木
 

最後に--。
こうして市内にそびえ立つ樹木に目を向けていくと、長崎の歩んできた歴史が、それら木々に象徴されているような気がしてきた。坂本町の山王神社の被爆した大クスは、原爆の悲惨さを物語っているが、一方で、今なお葉を青々と茂らせ生きる姿は、生命の尊さ、たくましさをも感じさせる。そして、当時焼け野原となった長崎の地に「希望の象徴に!」と植樹されたのが、永井隆博士の千本桜だった。人の命よりも長い寿命と、風雪に耐える生命力を持つ樹木。かつての長崎を知る木々に見守られながら、また、その強く美しい姿に力を得ながら私達もたくましく生きていきたいものだ。

山王神社の被爆クス

永井隆博士の千本桜
今も城山小学校に数本残る
永井隆博士の千本桜
 

参考文献 『ながさき植木物語』(長崎県自治調査センター)


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