長崎山清水寺

平成の大修理で判明した
新発見の連続!

現在の本堂の位置に謎?
元和9年(1623)に最初に慶順が建てた堂宇は、おそらく粗末な庵だったと推測されている。だが、その4年後の寛永4年(1627)、長崎奉行や島原藩主の支援を受け、京都清水寺を模した本堂(前身本堂)が完成している。今回の修復工事に伴う発掘調査によって面白い事実が判明した。
この前身本堂の遺構が出土したのだ。それによると、現在の(※1)本堂は、前身本堂に対して反時計廻りにやや向きを変えて再建されていたという。ちょうど正面には、後に唐人屋敷が建てられた館内。そしてその向こうは長崎港。信仰的な何か理由があったのか? なぜ再建の際は向きを変えたのか? ただ、本堂前石敷は、軸線の関係から前身本堂のために築かれたものであることが明らかになった。ただ、向きを変えたことの謎は依然深まるばかりである。

梅屋庄吉肖像写真
 

日中融合、長崎ならではの建築様式
今回、甦ったものの中に、本堂に掲げられた2枚の扁額がある。鮮やかな青字に力強く書かれた「清水寺」の文字。この本堂外陣の中央に掲げられた扁額は、明暦2年(1656)、木庵禅師の書、唐通事 頴川藤左衛門が奉納されたもの。清水寺がしだいに寺院としての体裁が整ってきたのがその頃だった。しかし、寛文3年(1663)、筑後町から出火した火事により長崎総町66のうち、全焼57町、半焼6町という大火となった。このとき、清水寺境内の一部も被災したと思われている。

梅屋庄吉肖像写真

梅屋庄吉肖像写真
   

寛文8年(1668)、福建省出身の帰化唐人、貿易で財を成した大富豪 何高材(が こうざい)と、その息子、兆晋(ちょうしん)、兆有(ちょうう)兄弟が、再建の造営に着手。再建された本堂は、何高材が妻の供養のために建立されたものといわれ実際には兆晋の時代に完成した。その特徴は伝統的な日本様式の中に、当時の最先端の中国様式が数多く織り混ぜられていること。全国各地、ほかに類をみない仏堂であるため、中国人大工が普請したものと推測されている。本堂造園の成就を記念して立てられた「重建清水寺紀縁」石碑は、現在も本堂背面に現存し、この石碑も国指定重要文化財の一部となっているそうだ。

梅屋庄吉肖像写真
   

本堂に唐寺 崇福寺と同じ構造を発見!
 
寛文3年の大火の際、崇福寺はほぼ全焼した。それでも崇福寺はすぐに復興され、媽祖門も寛文6年(1666)に再建されている。実は、この崇福寺の媽祖門(国指定重要文化財)と同じ構造を清水寺本堂にも見ることができる。外陣舟底天井だ。清水寺本堂再建は媽祖門再建から遅れること2年、おそらく、同じ大工棟梁によって普請されたと考えられている。
土佐商会跡
   

何高材の妻を祀る霊廟建築!
 
再建された本堂のスタイルは周囲を開放するもので、これは神や偉人を祀る霊廟建築の世界的な特徴なのだという。例えば、中国北京の天壇や、仏舎利を祀るストゥーパや五重塔など。中心に対象となるものを祀り、そこから同心円状に祈りの空間を展開するというものだ。何高材が妻の供養のために建てた仏堂だという意味が建築様式によって表現されたこの仏堂は、方形で四方の裳階(屋根の下に付け足した庇(ひさし))を開放する日本でも稀で貴重な建造物だということが発覚した。 土佐商会跡
 

堂内の意匠は江戸仏堂絵様の元祖!
絵様とは、虹梁(こうりょう)などの部材に施された模様や彫刻デザインのこと。これまで、これらの絵様が日本の伝統的な建築細部の形態からみて1700年代以降のものと考えられていた。ところが今回の解体修理で絵様は寛文8年の再建時のものであることが確定! これは日本の建築意匠の歴史を塗り替える大発見だったという。つまり、この長崎の清水寺の中国テイストも盛り込んだ斬新なデザインが全国へ発信され、各地に広まっていったということなのだ。再建当時と同様に彩色された唐草や渦模様のデザイン(全16種類)は、どれひとつとして同じものはなく、往時の華やかな輝きを彷彿とさせる仕上がりだ。

土佐商会跡

土佐商会跡
 

まさか!創建から存在する二十八部衆
本堂内陣、中央厨子に祀られた千手観音を守る脊属(せきぞく/従者)である(※2)二十八部衆も今回生まれ変わった。一尊から元和9年(1623)の墨書が見つかったことから、そのすべてが創建当初の仏像であることがわかったのだ!大正時代に泥絵具で塗り直されたが、再び煤にまみれ、修復前は全体に黒っぽかった。今回の修復で再び本来の岩絵具で彩色され、創建時の色鮮やかな仏像へと甦った! 土佐商会跡
 

唐貿易との関わりが伺える石の欄干!
(※3)長崎版 清水の舞台の欄干、擬宝珠高覧欄に刻まれた寄進者名には、当時の長崎華僑の名簿には見当たらない者が名を連ねた。中には「南京人」と刻まれたものもあったのだそうだ。

一月住職「今回の修復工事では、本堂前の石垣、石の欄干にすべて番号をふってはずし、また元のように組みあげました。3基の燈籠も同様です。石屋さんは恐る恐る、苦労されておられましたよ。今の時代でこれですから、創建当初の技術の素晴らしさを実感させられました。」

土佐商会跡


〈2/3頁〉
【前の頁へ】
【次の頁へ】