4月(旧四月)

●江戸時代、西洋羽子板(バドミントン)や玉突き(ビリヤード)など、様々な遊びが出島から伝わった。なかでも代表的なものは、ご存知!今も伝承されているハタ揚げ。これは、出島のオランダ人たちの世話をするインドネシア系の使用人達から伝わったもので、他県の凧と違うのは、オランダ国旗と同じ色使い。長崎名勝図絵にもあるように、出島の使用人達と長崎の町人とが互いのハタを落し合う喧嘩ハタ。今は春に稲佐山や唐八景などで行われるハタ揚げだが、昔は時期を問わず遊んでいた。そのときに子ども達がうたっていたのがこんな唄。

♪愛宕の山から風もらお
  風がい〜んま(後で)もどすけん
  ずっとこい ずっとこい

あっという間に、青空に舞うハタが切られ真っ逆さまに落ちる、というのが、ハタ揚げの醍醐味。愛宕の山は♪稲佐山といい替えてうたうこともあった。
 

5月(旧五月)

●江戸時代、端午の節句とその翌日に行われていたのが、くんち、ハタ揚げと並んで、今に伝わるペーロン
ナガジン!「長崎の夏はペーロン三昧!」(2007.7月)参照
その起源には諸説あるが、唐人達が海神を祀る意味も込めて行っていた競漕を最初に真似てはじめたのは、子ども達だったという。そして、今のように競技性を本格化したのは、競争好きの長崎の大人達。当時、海に面した三十六か町でさかんに行われるようになり、少年達は「小競船(こぜりぶね)」として独立し各町で競技を行なうようになったが、当日早朝の猛特訓もむなしく、いざ本番になると青年達がとって代わるのだった。他の行事同様、つくづく長崎の大人は筋金入りの祭り好きなのだと思い知らされる。


6月(旧六月)

●江戸時代の旧暦五月には、川沿いの町で川祭りがさかんに行われていた。その様子はシーボルトが記した『日本』にも紹介されている。なかでも最も有名だったのが長崎の奥の入江としての機能を果たしていた大黒町の水神祭で、これは昭和初期まで盛大に行われていた。海中に祭壇を設け、それが面する道路に「奉祭礼八大龍王水神宮」と書かれたのぼりを揚げた。市中七か町を経て海へ注ぐ岩原川がこの辺りで潟地となり、川祭りの際は、町内の若者が素っ裸の全身にこの潟を塗って目だけを光らせた河童を真似、銅鑼(どら)を叩いて他町まで行き暴れたという。祭りに訪れた子ども達には、水難除けのお守りが配られ、ご馳走が振る舞われたため、この大黒町の川祭りは、市中の子ども達が心待ちにする大イベントだった。
 

7月(旧七月)

●大いに賑わう八坂神社の祇園祭りが過ぎると、やがてお盆がやってくる。
ナガジン!「寺町界隈ぶらり散歩道(取材メモ 八坂神社)」(2001.11月)参照
すーすーす。とっとっと。に匹敵するコトバ、「バイバイバイ」というのがある。なんと、昭和初期まで長崎の小さな子どもは、提灯のことを「ばいばい」といっていたそうだ。旧七月の盆前から終わりまで、このばいばいを灯し、唄をうたいながら子ども達が町々を巡る風習があった。

♪提灯やバイバイバイ 石投げたもんな手の腐るる

この儀式、実は迎え灯籠、送り灯籠の意味を持っていたのだそうだ。このお囃子「バイバイバイ」が、子ども達にとっては提灯を意味していたということだ。(※「バイバイ」は、傘の意味という説もあり)


8月(旧八月)

●盆の三日間で、3億円以上も花火を消費するといわれる長崎の町。他県の人には到底理解できないこの花火へのこだわりは、幼い頃から毎年盆に墓所で鍛えられ、代々受け継がれていくものだろう。年を重ねても、花火のない夏はどこか淋しい。それも線香花火などとやわなものは、花火にあらず、長崎で花火とは「爆竹」かまたは「矢火矢」というのが常識だ。精霊流しの際の「矢火矢」の使用禁止はその危険性を考えると当然だが、今でも墓所ではこの「矢火矢」や「爆竹」を素手で持ち、火をつけ楽しむ人の風景を目にする。危険といえば危険だが、実際、これも古くから伝承されてきた長崎人の花火の楽しみ方のひとつといえるだろう。
 

9月(旧九月)

●旧暦九月だと、町ぐんちに継いで各地で郷(さと)くんちが行われる。江戸時代だと栗名月とも、十三夜待ちとも呼ばれる観月会も盛んに行われたという。
ナガジン!「ながさき月夜話」(2008.9月)参照
そんな中、オランダ貿易で賑わっていた江戸時代の長崎では、貿易を終えた船の出帆は、旧暦九月十九日あるいは二十日までと定められていた。数十もの紅白はたをひるがえし、砲を撃ち、錨をあげて港を出て行くオランダ船。このとき、出帆、いわゆる「湊下し(みなとおろし)」の様子を見ようと詰めかける人々で、福済寺や大徳寺などの港の見える高台はあふれかえったという。長崎を訪れた旅人も、民衆も「遠くからでもオランダ船を見た!」というのが、自慢の土産話だったのだ。この風景も、ひと時代続いた、長崎の風物詩だった。
 

10月(旧十月)

●10月の遊び、風習といえば、やはり長崎くんちに終始する。今でも市内、踊町周辺ではくんちを中心に1年が回っている感が否めない雰囲気だが、上記のように、オランダとの貿易が盛んだった時代は、なおさらのこと。もうじきオランダ船の出航というので、かまど銀、箇所銀で借家人も地主家持ちも、現在に置き換えると約20〜150万程もの副収入を得ている時期だからだ。おまけに季節も良好! そして、時代が過ぎ、まだ昭和ぐらいまでは、くんちの期間は、町中の小学校は休み、あるいは午前中までということも多く、子ども達は帰宅したらランドセルをその辺に放り出して、お旅所に駆けつけたものだった。そういえば、長崎の衣替えも、くんちの小屋入りである6月1日だし、くんち本番が過ぎると、めっぽう寒さを感じるようになる。1年の区切りをくんちで知るのが、今も昔も長崎人なのかもしれない。
 

11月 (旧十一月)

●江戸時代、旧暦十一月冬至は、中国の古い占いの本『易経』に出てくる“冬至に太陽の力が復活して、これまでの逆境や不運が続いたあとで幸運に向かう”いわゆる「一陽来復」の日として、商家では座敷に壇を設けて関羽、張飛、玄徳などの像をかけて祝った。お供えは、善財餅、つまり「ぜんざい」。お供え物の余りは親戚や知り合いに配るのが通例だ。この冬至の節を祝い祭るのは中国からの影響で、唐人屋敷や新地などでも商人達を招いての盛大な祝宴が行われた。そして、冬至の節の十一日目(陰暦の十一月中)に出島で行われていた宴が「阿蘭陀正月」。しかしこれが、太陽暦では十二月二十日過ぎに当たる。つまり、オランダ人達は一陽来復の祝いにみせかけてキリスト降誕祭であるクリスマスを祝っていたのだ。奉行所も、民衆も、「オランダでも一陽来復を祝うんだー」と、信じ込んでいた、という話。
 

12月(旧十二月)

●12月23日、崇福寺通りの一角で、来年、57年ぶりの長崎くんち参加が決定した今籠町の餅つきが行われているのを目にした。子どもの頃、つきたての柔らかい餅を、生姜醤油につけて食べていたのはおいしかったなぁ! 昔は、自治体や各家庭で多く見られた餅つきも、今ではニュースになる出来事だからなんだか淋しい。長崎では、元来旧十二月二十二日から二十七日まで正月の「年の餅」をつく餅つきの日だった。おもしろいのは、この日、この年に新婚の花嫁がいると、友達などがその花嫁をつかまえて、臼(うす)に入れる、という風習があったこと。餅のように、ながーく添い遂げるように…という意味だろうか?
 
 笑える!身にしみる!
 子どもの悪口あれこれ part2

●友人のAさんとBさんを仲違いさせるという、子どもの悪意に満ちた唄がこれ。

「とんびとっぱげ からすから聞いた からす かさくれ とんびから聞いた」

これは、君の悪口を友達から聞いたよ、と言いつけるニュアンスがポイント。 「とっぱげ」は長崎弁の“はげ”で、「かさくれ」は“かさぶた”のこと。 「とんび」と「とっぱげ」、「からす」と「かさくれ」、と、韻を踏んでいるところがラップ調で今風なのが笑える。

●また、長崎は寺が多く、子ども達はよく境内で悪さをしては、お坊さんに怒られていた。そんなとき、以下のような悪口をいいながら逃げた!

「坊主ぼうず 山の中に 昼寝せろ 蜂からどんべん さーされろ」

「どんべん」とは“男性自身”。この情景を思い浮かべると、とっても微笑ましい。

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