江戸から昭和にかけて、モノがない時代には大人も子どもも一緒になって遊んだ。年中行事も、今のようにモノに囲まれたものではなく、手作りや工夫を凝らして楽しむ知恵があったのだ。そこには今に伝わる長崎らしさや生活を楽しむヒントが満載。そこで、

 

ズバリ!今回のテーマは
「復活するのもアリ? 昔懐かし遊びと風習をチェック!」なのだ。




長崎ならではの遊びには、それに合わせてうたうわらべ歌も多かった。
また、年中行事にも今では考えられないユーモアもたっぷりあった!
古き時代の長崎の1年の流れがよくわかるように、季節にそって紹介していこう。
 

1月(旧一月)

●江戸時代、長崎にはちゃんめら吹きという商売があった。ちゃんめらとはポルトガル語の「チャルメラ」のこと。彼らは正月、松の内(7日まで)に、連れの者に銅鑼(どら)を打たせ片張太鼓をたたかせて座敷に上がり込み、祝いの囃子を吹き立てる。それで、6文から16文のご祝儀をもらっていたという。彼らの正体は、中国人の葬式につきものの楽隊業者。装いももっともらしい袴姿だったという。それが、江戸時代だけの話かと思いきや、大正、昭和初期には、このちゃんめら吹きに代わって年始の楽隊というのが出現! 吹奏楽器編成の10人程度の楽隊が市中を回った。しかし、楽隊とは名ばかりで、突然ラッパで

♪年のはじめのためしとてー

を吹き鳴らしては、祝儀をもらい次の家に突進!という慌ただしい集団だったという。この獅子舞ならぬ、楽隊が、長崎の町の元旦気分を盛り上げていた。

●また、江戸時代の旧正月には、陸(おか)ペーロン、またの名を「せーらえん」という子どもの遊びがあった、これは、いわゆる大人のペーロンの真似事。
ぶらぶら節に出てくる

♪大井手町の橋の上で 子供の旗(はた)喧嘩

この「旗喧嘩」もこの陸ペーロンのこと。青竹でペーロン船を真似て作り、幟旗(のほりばた)を押し立て、他の組と競走して勝った方が相手の旗を取って遊んだ。

♪世話町は五六町ばかりも 二三日ぶうらぶら
  ぶらりぶらりと いうたもんだいちゅう


ときたまこれに大人が加わり大騒動となって、仲裁役の世話町が入って、収まるのに二三日かかることもあったというのだ。
 

2月(旧二月)

ナガジン リポート! 節分
「伝統が伝える、人と繋がる楽しさ」
 



文字通り季節の節目に訪れる日、節分。本来、立春、立夏、立秋、立冬の各前日の4回を指すが、江戸時代以降は、立春である2月3日を指すようになった。
ここでは、今も市内の一部の地域で受け継がれている風習、節分の模様を紹介。あなたのお宅の節分の儀式とぜひ比べてみよう。

琴海地区で、毎年、2月3日に行われている節分の儀式は、とってもユニーク! 昔から、仮装した地域の青年団が家々を巡り、豆をまくというものだ。
今では、若い青年が少なく、地域の子ども会や中学生などがその大役を務める地域も多い。
大村湾へと流れ着く小さな手崎川周辺の手崎(てさき)地区。ここにお住まいの今年、94歳を迎えられた坂本忠一(ちゅういち)さんに、古くから伝わる節分の様子を伺った。

坂本忠一さん



■坂本さん
「行列の様子は、衣装など、少しずつ工夫をしていますが、今も昔もだいたい同じようなものです。ただ、昔は男連中ばかりだったんですよ。それでだいたい嫁をもらったら引退。それが戦時中には女の人も借り出され、今は子ども達ばかりになっている地域もあります。私が若い頃に住んでいた地域には40世帯程ありました。当時“青年倶楽部”といっていた、今でいう公民館からスタートして、すべての家を巡るんです。」
その人数はだいたい7〜8人。

■坂本さん
「家に入ると、羽織袴を身につけた一人目がまず口上を述べます。」


  (口上)
     ※1鎮守府の将軍、※2摂津の守(かみ)源の頼光(らいこう)
     ※3坂田の金時、※4渡辺の綱 その時、※5障子ヶ岳
     数多(あまた)の鬼、住みかをなしておる その鬼が
     降るか降らんかのためにはじまった 鬼豆討ちな〜りぃ〜

※ 1 奈良時代から平安時代にかけて北辺の防衛のために置かれた令外官の官職の将軍のこと。 ※ 2 摂津源氏(源頼光)のこと。
※ 3 頼光の家来となった、頼光四天王の一人、まさかり担いだ金太郎のこと。
※ 4 頼光の父である「源満仲」の婿で、頼光に仕えた頼光四天王。
※ 5 山形県・朝日連峰の障子ヶ岳

と、鬼退治はもちろん、妖怪退治で有名な平安期の英雄「源頼光と四天王」の登場だ。

■坂本さん
「この口上が終わると、二人目が家中くまなく豆をまきます。」


     田畑 千石 千俵 この家に入ったふくえびす〜(福恵美須)
     鬼はそと〜(外)、福はうち〜(内)

■坂本さん
「そして三人目は、釘などを入れ、紐で橙(だいだい)をくくりつけた千両箱に見立てた箱を部屋中でドスン、ドスンと投げ下ろします。」


     親代々、子代々 伝わりきたる 福はこの家に
     ドデン、どっさりー

■坂本さん
「次は、白い手ぬぐいをかぶって、白いはんてんという狐の装束をしたお稲荷さんが、手に持った鳴りものを鳴らしながら、こう述べます。」


     そーれ 来た来た 来たとは言えども
     飛脚じゃござらん お客じゃござらん
     京都下りのおーいなりさん(お稲荷さん) チャリン、チャリン!
     千両万両のお金 くれども 四百四病の病気と貧乏神は来ん
     来んとゆうてから いっここんのこーんこん

そのほか、べっぴんさんや、お腹の大きな妊婦に扮した人々が連なる。仮装とはいっても、一人一人に役割があるのだ。

■坂本さん
「全ての家を巡った後、家々からいただいたお酒で祝杯をあげるのが楽しみでした。今の若い子ども達とは口上も違いますから、私が教えることはありませんが、毎年、家にやって来てくれるのを楽しみにしています。」




時代が大きく変わっても、地域への愛情や人との繋がりを育める伝統行事は やはり素晴らしいと実感! いつまでも受け継がれていくことを願うばかりだ。
 

三月(旧三月)

●新暦の旧三月二十一日に当たる日は、弘法大師を祀る真言宗の寺院、町中に点在する大師堂で御影供(みえく)という法要が行わるため、多くの信者が参詣する、いわゆる「お大師さま」の日。弘法大師のお絵像や木像、石像を祀ってある家庭でも供物をしてお祭りをするこの修行は、江戸時代から現在でも盛んに行われているが、昔の風景は、今とはちょっと違う。寺院やお堂、各家庭でも参詣する者にお茶やお菓子を振る舞っていたため、子ども達も行列をなしていたのだ。昭和の中頃、そんな子ども達が手に握りしめていたものは1円玉。あらゆる情報をその経験から入手した、近所の高学年の後ろについて回る小さな子ども達。これはこの季節の長崎風景だった。


桶屋町の大師堂
   
 笑える!身にしみる!
 子どもの悪口あれこれ part1  

● 子ども同士の喧嘩で、相手をからかうときに使われていたのが、こんなフレーズ。

「かじやのでっち 金たたけ 桶屋のでっち おけもってこい」

今の子ども達に、このニュアンスは理解できるだろうか……。

●また、子どもの喧嘩に一方の親が出て、叱ったりぶったりすると、他の子ども達は大勢でこう叫んだ。

「子どもの喧嘩に親でるな お上に知れたら はなはだ迷惑」

こんな時代が偲ばるる。

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