長崎の夏の風物詩といえば、ペーロン! 太鼓とドラの囃子に合わせ、掛け声勇ましく和船を漕ぐこの祭りは、一度目の当たりにしたらヤミツキに? 唐人屋敷の中国人から伝わったこの行事の歴史と共に、今も市内各地の港町で受け継がれるペーロン競漕の魅力に迫る!


ズバリ!今回のテーマは

「ペーロンビギナーに捧げる観戦極意!」 なのだ




●囃子のリズムに誘われて!ペーロンの歴史と変せんを学ぶ


ドーン、ドン、ジャーン、ジャン!
初夏、ちょうど長崎市の市花であるアジサイの花がまちを彩る頃、漁港を擁する各地から、一斉に威勢のよい太鼓とドラの音が聞こえてくる。そう! これこそが、長崎の夏の風物詩、ペーロンのお囃子! まるで海に潜む海神を呼び覚ますかのような、速く激しい独特のリズム。
ドーン、ドン、ジャーン、ジャン! ドーン、ドン、ジャーン、ジャン!
長崎に夏の訪れを知らせるこのお囃子が、今年も海上に響き渡る。

まずは、長崎市を中心に長崎(野母)半島、大村湾の一部、西彼杵半島に分布するこの長崎の伝統行事、ペーロンの起源について知っておこう。

“ペーロン”が中国南部から伝わった行事であることには違いないが、その起源には諸説あるようだ。
まずは語源! これは中国の“白龍(パイロン)”が転訛したものだともいわれているが、龍の「ロン」はともかく、「ぺー」が何に由来するものなのか説が分かれているのだという。



夏の風物詩・ペーロン!

起源で最も有力なのが四面楚歌の故事で知られる国「楚」の「屈原(くつげん)説」。中国の戦国時代末期、楚国で記された『楚辞』に、紀元前350年頃の中国の詩人、屈原(くつげん)にまつわる伝説が記されている。今から約2300年前、文人政治家・屈原は、王である懐王(かいおう)を助け善政を敷いていた人物。しかし彼が秦の陰謀によって失脚し、政界から退けられてしまうと政治は揺らぎ、間もなく懐王は敵国・秦の軍政に監禁され、屈原は左遷。そのうえ遂に祖国・楚の将来に絶望し、汨羅(べきら)という川に石を抱えて身を投げてしまった。この屈原の死を悼んだ楚の国民達が、屈原の無念を鎮めるために龍船(白龍)を出したのが、ペーロンの起源だというのだ。亡骸を食べられないよう太鼓の音で魚を追い払い、魚の餌として笹の葉に包んだ米の飯を川に投げ込んだ(これが“ちまき”の由来になった!)この一連の追悼の儀式がやがて彼の霊を慰めるため、龍船を漕いでその速さを競い合う行事として定着していったというものだ。
ちなみに、この屈原の命日である旧暦5月5日に、彼の供養のためにたくさんの“ちまき”を川に投げ入れる風習は、それ以後、国の安泰を祈願する行事として中国全土に広がった。そして、これがやがて病気や災厄を払う宮中行事となり、端午の節句として日本に伝わったのだという。

そしてもう一つの説は、出島和蘭商館の商館医として来崎した植物学者・ケンペルが、著書『廻国奇観』に記した「ケンペル説」。その伝説はこうだ。
昔、台湾の近くに大変豊かな島があったが、次第に堕落して遂には神をも恐れぬようになったので、神様が怒って島を沈めることにした。ただこの島の王がとても徳の高い人だったので、彼を惜しんだ神様は王の夢枕に立ち、この島から逃げる方法を教えた。そこで信仰深い王はこのことをみんなに教えたが聞き入れなかったので、やむなく、一族と臣下だけを連れて福州に渡った。すると間もなく島は沈んでしまったのだという。以後この避難を記念するために、福州では毎年祭りが行われ、島から避難したときのようにペイルーン、ペイルーン(竜/ペイロン/ Peiruun))と王の名を呼びながら船を漕ぐようになったという。これが、ケンペルが長崎に滞在していた際に中国人から伝え聞いたというケンペル説だ。

さて、そんなペーロンが長崎で初めて行われたのは江戸初期、明暦元年(1655)頃、暴風雨のため唐船が難破し多数の溺死者を出したので、長崎在住の唐人達が、海神の怒りを鎮めるためと自国の遊技を長崎人に誇示するために艀(はしけ)で競漕したのがペーロンの始まりだと伝えられている。
しかし、伝来した年代にもまた別の説がある。平戸イギリス商館長リチャード・コックスが、元和3年(1617)5月4日付の公務日記に “平戸で「海中に標的をひとつ立てておき片側八ないし九挺の櫂の附いた小舟に乘って漕ぎ進み、最初にそこへ到逹した舟が勝つ“ピロ”という祭り」を見た”と書き記しているのだという。

いずれにしても、現在、このペーロン競漕に酷似した船競漕は、中国南部から東南アジアまで広く分布しているのだという。中国発祥のペーロンが、様々な経路で各地に伝わり、その起源とは離れた理由で各地の海に面した地域の人々に親しまれ継承され続けているのだ。

江戸時代頃にはすでに長崎の民衆の楽しみであったペーロン! 現在、船体の長さは14m以下の専用船だが、江戸時代の中頃、競漕が盛大になった頃には、約20mから45mの大型船だったとか。町ごとでの対抗で競漕を行なうようになると、あまりに熱狂するためケンカや揉め事が絶えず、毎年、長崎奉行所では長崎港内・港外を問わず競漕禁止との御触れを出し厳命としたという。しかし効果は見られなかった。寛政12年(1800)には、港外で本五島町と深堀の船が競漕してケンカとなり死者まで出したため、翌年は改めて禁止令が出されたという。行事といえども勝負事。男達の血が騒ぐのは昔も今も変わらないものなのだろう。

◆長崎から他都市へ、ペーロン伝来!

それでは、ペーロンは長崎だけの行事かといえば、答えはNO! 豊漁と安全祈願を目的に行われる沖縄のハーリー(語源は爬龍船/はりゅうせん)も、長崎のペーロンにそっくりのボートレース。ハーリーは長崎同様に中国から直接伝わりその歴史は600年以上ともいわれている。そして、長崎から他都市へ伝えられ、盛んに行われているペーロン競漕もあるのだ! それが大正11年に長崎県出身の播磨造船所従業員によって伝えられた兵庫県相生市の相生ペーロン! また、鳥取県の北西部、弓ヶ浜半島の北端に位置する境港市の境港でも、海の神である「龍神」を奉り、漁業の振興と大漁を祈願するペーロンが行われている。海の祭りペーロンは、選手も観客も魅了する熱き戦い! 今年も各地で熱気あふれるレースが行われている。

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