岩崎弥太郎――長崎の基幹産業である造船業を確立した三菱財閥の創設者である。その血を継いだ孫娘、澤田美喜は、戦後、戦災孤児、混血孤児の養育に一生を捧げた。彼女の功績と人柄に触れる。
ズバリ!今回のテーマは「受け継がれた精神の根源」なのだ。
三菱財閥創設者、岩崎弥太郎。土佐の地下浪人の長男に生まれた弥太郎は、幕末、土佐商会主任・長崎留守居役として長崎に滞在。その後、時代を見抜く洞察力に優れた弥太郎は早くから海運業の可能性に目を向け、三菱財閥の礎となる汽船会社九十九商会を興し、三菱商会(三菱長崎造船所)へと発展させた。明治18年(1885)、弥太郎は52歳で病気のため死去。死のまぎわ、枕元に妻の喜勢と長男の久弥、そして、兼ねてより事業の片腕であった実弟である弥之助を呼び、久弥に弥之助を自分と思って仕えるように告げたという。子どもたちの教育についても冷静な目を持ち併せていた弥太郎。その遺志を継いだ久弥は、その後三菱財閥三代目となり、機械・石炭・造船・銀行運営にも着手。事業を拡大し、弥之助の長男、小弥太とともに日本の資本主義の草創期を担った。また、弥太郎の二人の娘、春路と雅子は、それぞれ後に首相となった加藤高明と弊原喜重郎(しであはらきじゅうろう)に嫁いでいる。
さて、今回弥太郎の子孫として紹介するのは、長男 久弥の長女、美喜である。美喜は、国連大使夫人として、優雅な生活を送れる環境にあったのにも関わらず、戦後の混乱期、迷える戦災孤児や混血孤児の母になることを決意。「エリザベス・サンダース・ホーム」の園長として、戦災孤児、混血孤児の養育に生涯を捧げた。戦災孤児は、文字通り第二次世界大戦で親を亡くした子どものこと。では、混血孤児とは? 戦後、駐留軍兵士と日本人女性との間に生まれ、何らかの事情で親と暮らすことのできなかった子どもたちのことである。美喜は、彼らを引き取り、教育し、一人前の社会人として送り出すための施設として昭和22年(1947)年、「エリザベス・サンダース・ホーム」を設立した。ここで彼女の人生に少しだけ触れていみたいと思う。
男の子が3人続いての4番目の子であった美喜は、竹を割ったような性格であった。この彼女の気性を気に入っていた祖母の喜勢(弥太郎の妻)は、兄たちのお古を着せ、取っ組み合いをしても良しとし、折にふれ祖父 弥太郎のスジを通す性分を語って聞かせ、岩崎家に代々受け継がれる厳格な家庭教育のもとに育てられた。喜勢から教え込まれた無駄を戒める日常的なしつけは、ホームの職員や子どもたちに降り注がれたという。美喜は、お茶の水の東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)の幼稚園に入り高等女学校に進んだが、中退して、現在の津田塾大学創始者、津田梅子に英語を学んでいる。20歳の時、外交官であった沢田廉三(後の初代国連大使)と結婚しクリスチャンに改宗。夫の赴任先であるアルゼンチン、中国、イギリス、フランス、アメリカと転々としたが、持ち前の物怖じしない性格と、英語力とでどこへ行っても現地の社交界に迎え入れられ、人脈を広げていった。
そんな美喜の転機はロンドンの駐在中。「ドクター・バーナードス・ホーム」という孤児院でボランティアに参加し、終戦後に駐留軍兵士と日本女性との間に生まれた混血孤児たちの不遇な状況に直面したことだった。この経験が、美喜が「エリザベス・サンダース・ホーム」を設立するに至った出発点であった。直接的なきっかっけは次のような出来事であった。
・・・ある日、満員列車で美喜の目の前に網棚から紙包みが落ちてきた。黒い肌の嬰児の遺体だった。美喜の頭に血がのぼり、心臓が激しく鳴った。イギリスの孤児院ドクター・バーナードス・ホームの記憶が突然よみがえった。美喜は天命を覚えて身震いした・・・「※三菱人物伝」より
第二次大戦後、美喜は日本にいた。日本に進駐した米兵と日本人女性との間に多くの混血児が祝福されずにこの世に生を受けてしまった子ら。多くが父も知らず、母からも見捨てられていく。
・・・日本にはいま大勢の祝福されない混血孤児がいる。そうだ、私はこの子らの母になる・・・「※三菱人物伝」より
夫の理解も得た美喜は憑かれたように行動を開始した。GHQに日参し「大磯の旧岩崎家別荘に混血孤児たちの ホームを作らせて欲しい」と訴えた。混血孤児の問題は直視したがらない人が多かったが、教会関係者や一部の在日米国人、それに使命感に燃えた多くの人々に 支えられ、美喜は諦めなかった。執拗に陳情を繰り返す美喜の希望がかなうときが来た。ただし「物納された別荘を買い戻すならば」との条件付きだった。美喜は寄付を募り、私財を投入し、なお足りない分は借金に駆けまわった。
昭和22年、美喜はついに別荘を買い戻し、「ドクター・バーナードス・ホーム」のように学校も礼拝堂もある「エリザベス・サンダース・ホーム」をスタートさせた。美喜、46歳のときだった。ホームの子どもたちから親しみを込めて“ママちゃま”と呼ばれた美喜は、厳しい体罰を与える面もあった。それは、子どもたちが大人になっても忘れられないほどのもので、美喜自身、我を忘れての行動であったという。自分を制御出来ず手を挙げる・・・子どもへの一途な思いが剥き出しになったものだった。子どもへの体罰の影響は、英国風の体罰を伴うしつけの影響を受けたという。また、美喜を知る人の多くは、彼女を芸術家タイプであったと語る。実際、パリでは女流画家、マリー・ローランサンに絵の指導を受けていた。そのためか、美喜は芸術に秀でた子どもがいると嫉妬心をあらわにするような幼稚な面もあったという。
昭和55年(1980)5月、スペインのマヨルカ島で美喜は客死した。「“ママちゃま”がいなかったら、いまの僕(私)はいない」。「エリザベス・サンダース・ホーム」出身者たちの多くが口にする言葉である。2000人を超える孤児を育て、500人を超える子どもたちをアメリカへ養子に出す仲立ちを行った美喜。当時、政府の公的機関が成し得なかった戦争孤児、混血孤児の育英に尽力した“ママちゃま”こと澤田美喜と、「エリザベス・サンダース・ホーム」の保母たちの業績は後世に伝えるべきものである。
美喜のカトリックへの篤い信仰心が彼女の心を強くした。数々の困難を乗り越える力も、子どもたちへ向ける愛情の源もその信仰心にあったのかもしれない。昭和62年(1987)、「澤田美喜記念館」が設立され、今も一般公開されている。そこには、美喜が夫廉三の大使時代に蒐集した、各国の十字架や、国内で集めた日本の歴史にも貴重な「隠れキリシタン」の遺物などが数多くを展示され、隠れキリシタンの強く熱い祈りを伝えている。神への信仰の下に「エリザベス・サン ダース・ホーム」を生み育てた澤田美喜のメモリアル記念館なのである。
現在は様々な事情により、親と一緒に生活 することが困難な家庭の2歳から18歳までの子どもたち約100人が生活している「エリザベス・サン ダース・ホーム」。敷地内にやはり澤田美喜によって設立された「聖ステパノ学園小中学校」があり、ホームの子どもたちの大半がそこへ通っている。