「鉄は文明開化の塊なり」――第2回の「近代産業への道のり、初期の波」でも触れたように、幕末の啓蒙学者、福沢諭吉のその言葉通り、鉄道、船、蒸気機関・・・明治日本の産業革命におけるすべての製造には、製鉄の技術が要となりました。我が国の近代製鉄は、安政5年(1858)、岩手県釜石で、盛岡藩士大島高任(おおしまたかとう)が、鉄鉱石を用いた高炉による出銑に成功したことに始まりました。それから10年後の明治元年(1868)、長崎の中心部を流れる中島川に〈長崎製鐵所〉が総工費1万6千両をかけて建設、当時の頭取 本木昌造が監督施工した日本で最初の鉄製の橋「鉄橋」が誕生しました。全長27m、全幅6mの鉄橋があったのは、現在「中央橋」の名で親しまれる浜市アーケード入り口に架かる「鐵橋(くろがねばし)」(3代目)の場所。それまで、築町と浜町の間に架かるこの場所には、木製の通称「大橋」がありましたが、洪水で大破したため強度のある長崎製鐵所の技術をもって、鉄橋に架け替えられたのです。明治元年、渡りはじめを行なったのは、後に長崎県知事となる長崎裁判所総督の沢宣嘉、参謀井上聞多(井上馨)でした。鉄橋ができると、長崎の新名所となり、夏になると多くの市民が涼みにやって来ていたとか。橋の地面は板張りだったため通行人がかき鳴らす下駄の音がゴロンゴロンと鳴り響いていたといいます。当時の長崎土産、長崎風景の白黒のスナップ写真に彩色した「絵葉書」に、その頃の様子を見ることができます。現在の鐵橋の欄干には「鉄橋」と刻まれていて、その呼称は今なお受け継がれています。
岩手県釜石の山深い場所に残る3つの高炉場跡をはじめとした「橋野鉄鋼山・高炉跡」。ここが日本における製鉄のルーツであり、ここから現代製鉄として繁栄に至った旧八幡製鐵所の流れが生まれました。
釜石地域における洋式高炉群の成功は、明治政府による明治7年(1874)の官営釜石製鐵所建設の決定につながりました。外国人技師の指導で建設されたこの製鉄所は明治13年(1880)に操業を開始しますが、わずか2年半で失敗。それを引き継いだ民営の釜石鉱山田中製鐵所が、小規模ながらも木炭高炉技術を踏襲し発展していきました。その後、同製鐵所の顧問となった東京大学教授の野呂景義(のろかげよし)が官営製鉄所時代の高炉を改修。明治27年(1894)もは、日本初のコークスを燃料とした出銑に成功しました。釜石地域の高炉操業は明治27年(1894)までの約36年間で終わりましたが、採掘場における鉄鉱石の採掘はその後も継続されました。
明治20年代に入り、鉄道敷設や造船などの鉄鋼需要が急増。特に日清戦争(明治27年〜28年(1894〜1895))には、鋼を生産する近代製鉄所設立の機運が高まっていきました。そこで政府が着目したのは、我が国で最大の石炭産出量を持つ筑豊炭田に隣接していた八幡村でした。石炭の確保とその輸送、国防上の問題、水や労働力、地震が少ないことなどの条件もクリアし、また地元の熱心な誘致活動の甲斐あって、明治30年(1897)2月に製鉄所の設置が決定。すると政府は、釜石の大島高任の息子、大島道太郎(おおしまみちたろう)を技監に任命し、製鉄技術導入先を決めるために欧米に派遣しました。
八幡製鐵所の創立案は、日本初のコークスを燃料とした出銑に成功した野呂景義が計画しましたが、大島は各国を視察していく中で、野呂の当初の計画(鋼材生産量6万トン/年)では規模が小さすぎると判断し、鋼材生産量を9万トン/年に拡大することに変更。また、製鉄所の設計から建設までをドイツのグーテホフヌンクスヒュッテ社(GHH.)に依頼しました。その後、ドイツ人の技術者 の指導のもと、日本人技術者や職人たちにより製鉄所建設工事が始まり、約4年の工事を経て、明治34年(1901)、東田第一高炉に歴史的な火入れ、高炉による鉄(鋼鉄)生産が始まりました。
官営八幡製鐵所は、明治43年(1930)までに三度にわたる拡張工事が実施され、高炉や工場の増設、河内貯水池などのインフラ整備により、飛躍的な生産拡大を達成。周辺に多くの産業が立地するなど、北九州工業地帯を形成する主要な工場として日本の近代化を支えてきました。現存する官営八幡製鐵所の「旧本事務所」「旧鍛冶工場」「修繕工場」「遠賀川水源地ポンプ室」は、わが国における近代化の最終段階、重工業化を達成した記念すべき存在です。