●禁教令にはじまる弾圧の歴史と遺構【弾圧の歴史】

修道士アルメイダの布教から、着々とキリスト教文化を花開かせ、全盛時代を迎えた長崎の町には、教会堂やキリスト教関連施設が建ち並ぶ、まさに日本におけるキリスト教の中心地。「小ローマ」と称されるほどまでに隆盛を極めていましたvol.3キリシタンの町、長崎 町建てと教会遺構【布教・繁栄】。巡察師として来日したイタリア人宣教師アレッサンドロ・ヴァリニャーノvol.2伝来初期の布教の地、日野江城跡と口之津港【布教・繁栄】の提案によって、天正10年(1582)、約30年間の布教の成果をヨーロッパに伝えるための天正遣欧少年使節が派遣されました。
天正遣欧少年使節顕彰之像
写真提供:長崎県観光連盟「旅ネット」

しかし、日本が新たな道を切り開いていく明るい兆しとも思えるそんな出来事の一方、国内には暗雲が立ち込めていきます。信長亡き後全国を統一し、ポルトガルとの貿易を容認していた豊臣秀吉が、しだいに広まりつつあるキリスト教の布教に脅威を感じ、強攻策に出たのです。天正15年(1587)、秀吉はバテレン追放令を出し宣教師達の退去を宣告、教会を破壊させ、イエズス会領となっていた長崎・茂木・浦上を没収し直轄地としました。

天正18年(1590)、異国の文化を吸収した天正遣欧少年使節の面々が帰国。彼らは印刷、音楽、絵画などの西洋文化を持ち帰り紹介し、日本に異国の風を吹き込みました。しかしそれから7年後、南蛮貿易で賑わい、キリスト教文化が花開いていた長崎の町に突然の悲劇が訪れます。慶長元年12月19日(グレゴリオ暦1597年2月5日)、秀吉の命により、京都で捕らえられた宣教師や日本人信者26名が長崎の西坂の丘で処刑された、日本で最初の殉教日本二十六聖人殉教です。


日本十六聖人殉教地

処刑の朝、26名は霧に包まれた浦上街道を3里ほど歩き、午前10時頃、西坂の丘に到着。すぐに十字架にかけられると両脇を槍で突かれました。この日は混乱を避けるため、市民には外出禁止令が出されていましたが、そこには4000人を超える群集が集まったといいます。

一説には、その後、この殉教者達の篤き信仰の姿に影響を受け、キリスト教に改宗した人々も多かったともいいます。秀吉は慶長3年(1598)に没し、その後全国を統一した徳川家康も、南蛮貿易を重要視し、キリシタン禁制に積極的ではありませんでした。この時期、長崎は日本におけるキリスト教文化・宣教の中心地として黄金時代を迎えていました。しかし、増え続けるキリシタンの反乱を恐れ、幕府はついに慶長17年(1612)天領に、2年後には全国に禁教令を出します。その後各地で多くのキリシタンが検挙・処刑されるなどし、厳しい弾圧の時代へと突入していきます。

平戸でザビエルによって最初に洗礼を受けた武士、木村vol.1キリスト教伝来の地・平戸島【布教・繁栄】の孫、セバスチャン木村(日本205福者)は、祖父の受洗から50年後の1600年に日本人で最初の司祭となりましたが、1622年、西坂の丘で火あぶりによって殉教。その3年前には同じく木村の孫のイエズス会士レオナルド木村(日本205福者)も火責めによって殉教者となっています。

元和8年(1622)、最も多くの信徒が同時に処刑された殉教事件元和の大殉教が起こり、幕府の弾圧はさらに激しさを増していきました。

キリシタンに対する拷問や処刑は、特に長崎奉行や元和2年(1616)に島原日野江藩主となった松倉氏によって残酷さを極めました。信仰を棄てさせるための拷問と処刑は、棄教しない者は火あぶり、水責め、逆さ吊り、果ては雲仙のたぎる熱湯に放り込みました。それは世界のキリシタン迫害史にかつて見られなかったもので、悪名高いものとして「ガリバー旅行記」にも取り上げられました。

また、キリシタンであることを明らかにするために使われたのが踏み絵。長崎地方では寛永頃から広く行われるようになりました。毎年正月に絵踏みが行われ、市中では4日から9日にかけて行われました。丸山遊女達は、きらびやかな衣装で踏み絵を踏むため、見物人が大勢つめかける風物詩になったといいます。

寛永14年(1637)に起きた島原の乱でポルトガルとの関係が悪化し、寛永16年(1639)幕府はポルトガル船の日本渡航を禁止しました。そして、キリシタンに対する取り締まりが徹底されていきました。秘かに信仰を続けていた信者達はひとたび発覚すると次々に捕えられました。代表的なのものに明暦3年(1657)の郡崩れ(こおりくずれ)があります。現在の大村市北部の郡川周辺の町々で608名が捕えられ、多くのキリシタンが斬首、水牢などで殉教しました。

このように、幕府や諸藩により厳しい取り締まりが続きましたが、浦上や外海、平戸などでは、多くのキリシタンが潜伏して信仰を守り続けました。
 
★その頃の長崎★
徳川家康が全国に発布した禁教令により、長崎の町の教会堂は次々に破壊され、その跡地には寺院やキリシタンを取り締まる役所などが建てられました。長崎では、元和・寛永年間(1615〜44)の間に多くの仏教寺院が建立されました。現在、風頭山のふもとには仏教寺院が立ち並び、寺町と称されています。それぞれの創建年を見てみましょう。創建当初、京都清水寺の末寺であった清水寺は元和9年(1623)、国宝、重要文化財建造物が多く残る唐寺・崇福寺は寛永6年(1929)、お隣の大光寺は、慶長19年(1614)、市中の数々の教会堂が破壊されたこの年、中島川畔、すすき原橋のたもとに建立され、万治3年(1660)に現在地(鍛冶屋町)に移転しています。同じく慶長19年(1614)に創建された大音寺は、本博多町(現万才町)のミゼリコルディア教会跡地に元和5年(1619)に建設され、寛永18年(1641)、現在地に移転しました。キリスト教全盛期である慶長13年(1608)に創建された晧台寺は、はじめ洪泰寺と称し岩原郷(現玉園町)にありましたが、寛永3年(1626)、現在地(寺町)に移り晧台寺と改称。その他、長照寺は寛永8年(1631)、延命寺は元和2年(1616)、日本における黄檗宗発祥の地興福寺は元和6年(1620)、浄安寺は寛永元年(1624)、三宝寺は元和9年(1623)、深崇寺は元和元年(1615)、禅林寺は正保元年(1644)、光源寺は寛永8年(1631)の創建です。風頭山の麓に現存する寺院は15を数えますが、この内、13の寺院がこの時代に創建されています。
 
★キリスト教人物伝★ 天正遣欧少年使節
欧州の地を初めて踏んだ日本人達
天正10年(1582)、長崎港を出港。天正遣欧少年使節は、ヨーロッパ滞在中、ローマ教皇をはじめ、各国の国王に謁見。ローマ教皇グレゴリウス13世からはローマ市民権も与えられました。天正18年(1590)帰国。日本を離れている間に発令されたバテレン追放令や大友宗麟、大村純忠の他界……キリスト教文化を思う存分吸収し、意気揚々と帰国した彼らにとってこれらは驚愕のニュースだったに違いありません。では、帰国後の4人の人生を振り返ってみましょう。伊東マンショ(1569頃-1612)、原マルチノ(1569頃-1629)、中浦ジュリアン(1568頃-1633)の3人は慶長13年(1608)、共に司祭に叙階され活躍しました。伊東マンショは長崎のコレジオで教えていましたが、禁教令目前の慶長17年(1612)に病死しています。語学に優れた原マルチノは宣教活動のかたわら洋書の翻訳なども手掛け、日本人司祭の中で最も著名な存在に。禁教令を受けマカオへ移住し活躍しました。中浦ジュリアンは、禁教後、九州各地を回りながら迫害に苦しむキリシタンを励まし指導しましたが、寛永9年(1632)遂に捕縛。西坂の丘で穴吊りの刑に処され殉教しました。天正遣欧少年使節で唯一福者になっています。千々石ミゲル(1569頃-1632?)だけは1601年にはすでにイエズス会を退会、棄教しており、清左衛門と名乗り長崎で暮らしました。棄教の理由は定かではありませんが、虚弱体質で留学が許されなかったこと、他の3人への嫉妬などが原因ともいわれています。





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