●伝来初期の布教の地、日野江城跡と口之津港【布教・繁栄】

布教の拠点が平戸から横瀬浦へと移った永禄5年(1562)。この年、島原半島の南端にある口之津港も南蛮貿易港として開港しました。天草島に近い口之津は小さな町でしたが、有明海へ入る小型船の寄港地として、当時の海上交通に重要な働きを持っていました。この口之津の領主は、肥前の戦国大名有馬義貞(よしさだ)。大村純忠の実兄で義直(よしなお)とも名乗る人物です。この有馬氏の拠点が有馬経澄が鎌倉時代前期の建保年間(1213-19)に築いた日野江城(南島原市北有馬町)です。

標高約78mの丘陵に築かれた中世の山城・日野江城跡には、今も石垣や空堀が現存しており、昭和57年、国の史跡となりました。有馬川から島原湾に至る干拓によって、現在は海岸まで2km余りの距離がありますが、築城当時は、海水が城の下近くまで入り込み、海際にそそり立つように築かれ、海に反射する太陽の日差しが城内に入り込む、まさしく“日の入江”の名にふさわしい名城だったといいます。

またイエズス会の報告書によると、義貞の次男で家督を継ぎ、後に訪れるイエズス会の巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノによって洗礼を受けたキリシタン大名・有馬晴信(洗礼名はドン・プロタジオ)により天正18年(1590)、石垣や階段、内部の建物が改築されたとあります。長崎在住のスペインの商人・ベルナルディノ・アビラ・ヒロンが記した『日本王国記』には、文禄元年(1595)城を訪れた際に、城中には庭園や茶室もあり、大広間からは美しい島原湾が眺望できたとあります。往時の様子が少しだけ想像できますね。

日野江城跡(北有馬町)
写真提供:長崎県観光連盟「旅ネット」

さて、永禄6年(1563)、ルイス・デ・アルメイダ修道士が、島原半島における最初の布教を口之津で250人に洗礼を授けました。その後、キリスト教は島原半島全体に広がり、口之津は布教の中心となったといわれています。

永禄10年(1567)、口之津港にポルトガル船3隻が入港します。永禄11年(1568)、口之津港に上陸したポルトガル人達は、ちょうどその時に行われていた葬儀で、100人ほどの日本の少年少女が、道をはさんでラテン語で聖歌をうたいながら行列する情景を目撃して驚嘆したといいます。

天正7年(1579)、口之津港に下り立った巡察師ヴァリニャーノの発案により翌年有馬(現南島原市)に設立されたのは、日本で初めてのキリスト教教育期間であるセミナリヨ。場所は最初有馬氏の居城である日野江城近くに6年程置かれました。そのほかキリスト教の聖職者を育成する教育機関コレジヨが加津佐に設置され、島原半島南部はイエズス会の日本教育の中心地に。さらに病院、慈善院も開設されていきました。

このように、有馬氏の領地を中心にキリシタン文化、海外文化が根付きました。その頃、多くのキリシタンが存在したという証となるのが、各地から発掘、発見されているキリシタン墓碑の存在です。島原半島では約130基が知られていますが、昭和34年(1959)、国指定史跡に指定された南島原市西有馬町須川名松原にある吉利支丹墓碑には、ローマ字による碑文や西暦年(1610)と元号年(慶長15)の両方が記されたものとして日本最古のもの。半円柱蓋石型(カマボコ型)と呼ばれる均整がとれた美しい形と、花十字、楔十字の2種の十字紋、ポルトガル式綴字法によるローマ字の碑文が刻まれているのが特徴です。

口之津駅から約700mの場所に、南蛮船来航の地と刻まれた石碑が立っています。 今年は口之津港開港450年目の記念すべき年。ここ口之津もまたキリシタン文化の息づく町です。


吉利支丹墓碑(西有家町)
写真提供:長崎県観光連盟「旅ネット」


南蛮船来航の地(口之津町)
写真提供:長崎県観光連盟「旅ネット」
 
 
★その頃の長崎★
鎌倉時代から長崎を治めていたと伝わる豪族長崎氏。ドン・ベルナルドこと、長崎開港時の領主13代長崎甚左衛門純景(すみかげ)の祖父は、実は肥前国領主・有馬貴純の三男康純。戦国時代、有馬家から養子として入った人物です。つまり長崎氏は有馬氏と縁戚関係にありました。また、純景の義父・大村純忠も有馬家から大村家へ養嗣子入りした人物。実兄は有馬義貞です。植木の里で知られる現在の長崎市古賀町――17世紀の終わり頃古賀は有馬氏の所領であったとされ、司祭館や布教機関が置かれていたといいます。浄土真宗の福瑞寺(ふくずいじ)の境内には、慶長年間(1596〜1614)のものとされる一個のキリシタン墓碑が横たわっています。その後の弾圧によってキリスト教の一村だった形跡が何一つ残っていない古賀の地にとって、この墓碑は村に伝わる貴重なキリシタン資料です。また、浦上村の領有権を持っていたのも有馬氏。先に叔父・純忠が長崎、茂木村を寄進したように、有馬晴信も天正12年(1584)、浦上をイエズス会に寄進しました。
 
★キリスト教人物伝★ ルイス・デ・アルメイダ(1525-83)
長崎県下を飛び回った宣教師
平戸、口之津、長崎、五島、天草の布教活動でその名を知られるイエズス会の修道士ルイス・デ・アルメイダは、ポルトガルのリスボンで、ユダヤ系の家に生まれました。医学を学び、貿易商となって1548年インドへ。その後、来日しました。彼のイエズス会との出会いは意外にも日本なのです。1555年、私財を投じ、豊後(現大分県)府内に育児院を開設。翌年にイエズス会に入会しています。トーレス神父は1557年の書簡に次のように記しています。「ここで私は『人の病を治す力』を有する一イルマン(修道士)の入会を迎えました」。
彼が長崎開港以前、入港していた福田で、大村純忠の長女の治療をしたという記録も残されているといいます。天正8年(1580)、マカオで司祭に叙階され、天草全島を任されたアルメイダでしたが、その3年後、天草河内浦で亡くなりました。アルメイダゆかりの地である長崎初の教会「トードス・オス・サントス教会跡」にある春徳寺の参道には、彼の功績を讃える大理石の記念碑があり、そこには“1567”と刻まれています。これは、この年、長崎の地に、アルメイダによりキリスト教と同時に西洋の医療が広められた証です。





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