●キリシタンの町、長崎 町建てと教会遺構【布教・繁栄】

長崎におけるキリスト教布教活動は、長崎港が開港される以前の永禄10年(1567)、修道士ルイス・デ・アルメイダvol.2.伝来初期の布教の地、日野江城跡と口之津港【布教・繁栄】によってはじめられ、そのわずか2年後には、長崎最初の教会堂トードス・オス・サントス教会が建立されました。この地は、領主・長崎甚左衛門純景の居館近くのお寺だった場所です。その後、外海に面した悪条件の福田港に代わる新たな南蛮貿易港を探していたイエズス会宣教師らに選ばれたのが福田と同じく大村領である長崎港。深い入江の穏やかな、天然の良港でした。

それまで長崎氏の居城がある桜馬場一帯に集落が形成されていたと考えられる長崎の地は、元亀2年(1571)、湾に大きく突き出した岬の先端、現在の万才町一帯を中心に新たに町建てが行われていきます。最初にできた町は、大村町、島原町、平戸町、横瀬浦町、外浦町、分知町という6つの町。この町名からもわかるように、南蛮貿易に従事するため、各地から移住してきた者人々などで構成された町でした。天正8年(1580)、大村領主・大村純忠は、この6ヶ町と茂木をイエズス会に寄進。


それでは市中に建てられた教会堂やキリスト教関連施設の様子に迫ってみましょう。

長崎に建てられた2つ目の教会は、サン・パウロ教会。元亀2年(1571)、現在の長崎県庁所在地、長い岬の突端に、宣教師フィゲイレドによって小さな聖堂が建立され、その後、建て替えや破壊を経て、慶長6年(1601)、被昇天のサンタ・マリア教会として落成しました。イエズス会本部、コレジヨ、印刷所なども隣接。日本で最も美しい教会といわれ、設置された鐘によって音楽が奏でられる大時計は、礼拝に訪れる信者だけでなく、大勢の見物人の関心を呼んだといいます。

現在の長崎地方検察庁と長崎地方法務局の間にある石段、通称・けんか坂(大音寺坂)沿い、現・法務局の場所にはかつてミゼリコルディア本部教会がありました。ミゼリコルディアとは、無報酬で福祉活動に励むキリスト教信徒の共同体。長崎では天正11年(1583)に結成されました。この組織は、禁教令発令後の1619年(元和5)まで存続しました。

長崎歴史文化博物館の場所もかつての教会跡地です。ここにあった山のサンタ・マリア教会は、文禄3年(1594)頃にはすでに小さな聖堂が建っていて、長崎の人々に親しまれていたといいます。慶長6年(1601)には新しい墓地が、慶長8年(1603)には教会堂が新築されました。

天正遣欧少年使節に引率したメスキータ神父は、慶長8年(1603)、病院とサン・チャゴ教会を設立。場所は、酒屋町、現在の魚の町辺りだといいます。慶長17年(1612)鋳造された病院の鐘は、現在大分県竹田市の中川神社に残されています。

現在、筑後町通りにある本蓮寺も教会跡に建てられた寺院です。ここには、ポルトガル人の寄付で建てられたサン・ラザロ病院付属の教会堂サン・ジョアン・バウチスタ教会がありました。

慶長11年(1606)、長崎代官・村山等安が、司祭であった息子のフランシスコ・アントニオのために建立したサン・アントニオ教会は、本大工町、現在の魚の町付近にあり、近くに小さい墓地もあったとされます。

慶長12年(1607)に建立されたのは、サン・ペドロ教会。第四の小教区であったこの教会堂は、今町、現在の金屋町付近にあったといわれます。
市役所通り、桜町小学校の場所は、サント・ドミンゴ教会が建っていました。モラーレス神父は、薩摩藩領からの追放を受けて、京泊(現在の鹿児島県薩摩川内市)にあった教会を解体し、船で木材を長崎に運び、当時長崎代官だった村山等安が寄進した土地に慶長14年(1609)、サント・ドミンゴ教会を建設しました。
サント・ドミンゴ教会跡資料館

豊臣秀吉の朝鮮出兵の時から長崎には朝鮮人が多く居住しており、その大部分がキリスト教信者でした。慶長15年(1610)創建のサン・ロレンソ教会は、彼らによって建てられたといわれますが、その場所は不明です。

禁教令が発布される間際には、イエズス会以外の修道会による教会堂建設が目立ちます。

慶長16年(1611)、フランシスコ会によって建設が着工されたのが、サン・フランシスコ教会。現在の長崎市役所別館の地です。そして、慶長17年(1612)頃、アウグスティノ会のベルナルド・アヤラ神父が本古川町(現在の古川町)に建てたサン・アウグスチノ教会。この教会堂が、キリスト教全盛期に建てられた最後の教会堂でした。

長崎の町のキリスト教全盛期は、16世紀末から17世紀初め頃にかけてでした。慶長18年12月(1613年1月)徳川幕府による全国的な禁教令が発布され、慶長19年(1614)、これらの教会堂は、破壊されていきます。

長崎で最初に破壊されたのは「山のサンタ・マリア教会」「サン・チャゴ教会」「被昇天のサンタ・マリア教会」「サン・アントニオ教会」「サン・ペドロ教会」「サン・フランシスコ教会」「サン・アウグスチノ教会」。「サン・フランシスコ教会」は、未完成のまま破壊されたといいます。

一方、病院などの付属施設は、その必要性からでしょうか、時期を遅らせて破壊されたようです。

「サン・チャゴ教会」付属の病院は元和5年(1619)、「サン・ジョアン・バウチスタ教会」のサン・ラザロ病院も同年の破壊です。そして、教会としては、「サン・ロレンソ教会」がこの年まで残されていました。

長崎のキリスト教全盛期時代を物語る教会遺構のうち、現在見ることができるのが、サント・ドミンゴ教会跡の遺構。長崎市桜町小学校の敷地内であるこの地は、教会が壊却された後、代官屋敷となっていた場所です。小学校建設に伴う発掘調査では、当時の石畳や、キリシタンの文様である花十字がデザインされた瓦が多数出土しており、現在、「サント・ドミンゴ教会跡資料館」として公開されています。ぜひ、この場所で、キリスト教伝来直後、華やかなりし頃の長崎のキリスト教遺産に一度触れてみてはいかがですか?


キリスト教全盛時代の石畳
(サント・ドミンゴ教会跡資料館)


花十字瓦
(サント・ドミンゴ教会跡資料館)

●「サント・ドミンゴ教会跡資料館」
  長崎市勝山町30-1/095-829-4340/9:00〜17:00 月曜休(祝日の場合は開館)/入場無料
 
★その頃の長崎★
南北朝期以降、長崎氏は桜馬場の地に鶴城を築き、一帯を支配していたといいます。その頃、長崎湾の南側大きな勢力を持っていたのが、深堀純賢。彼は、諌早領主の西郷純堯(すみたか)の実弟で、兄純堯に味方し、大村純忠と戦い、大村に属する長崎を度々襲撃していました。純堯・純賢兄弟は熱心な仏教徒であり、純忠らがキリシタンに入信したことをよく思わず、また、南蛮貿易で勢力を拡大することを警戒していたといいます。純忠にすれば、長崎港の入口を監視されることは不都合なこと。そこで大村氏・長崎氏vs深堀氏・西郷氏、さらには佐賀の龍造寺隆信による圧力なども加わり、近隣領主との間では繰り返し抗争が起こっていました。元亀3年(1572)、長崎甚左衛門純景は深堀氏に領内攻撃を受けています。この攻撃で、長崎氏の館もトードス・オス・サントス教会も町も焼け落ちてしまいます。その後も深堀・西郷連合軍の攻撃は断続的に行われ、その都度、純景は純忠の援軍を得て連合軍の攻撃を退けました。今も町名として残る「勝山」の名は、深堀・西郷両軍との戦の勝利にちなんだものだといいます。天正8年(1580)、純忠は長崎の地をイエズス会に寄進しますが、これは、近隣領主との戦いの中での自らの避難場所と、貿易による収入を確保することを目的としたものだったといわれています。
 
★キリスト教人物伝★ 大村純忠(1533-87)
長崎の町の礎を造った男
「日本初のキリシタン大名」の代名詞でその名を全国に知られる大村純忠。17歳で家督を継いだ純忠はいくつかの優れた素質を備えていました。そのひとつが率先力。新しい道に入って行くことを決して恐れず、複雑な問題に解決を見出す能力を持ち合わせていました。そしてもうひとつは、逆境に打ち勝つ精神力です。平戸を追われ、布教の新天地を求めていたポルトガル修道士達に、横瀬浦の港を提供し、キリスト教の布教、そして南蛮貿易の拠点として歴史の表舞台へ導く−−間もなく、この地で純忠自身も洗礼を受け、日本最初のキリシタン大名に。宣教師らが仏教寺院の破壊などを勧めましたが、元は仏教徒であった純忠は、初めは躊躇。しかし、ある時から人が変わったように領内の寺院を破壊し、キリスト教にのめり込んでいったといいます。横瀬浦では藩内の反対勢力により内乱が発生。横瀬浦の町に火が放たれ、貿易港としての役割はわずか1年余りで終止符を打ち、舞台は同じ大村領である福田、長崎へと移ります。何といっても後世にまで語り継がれる純忠の功績は、長崎港の開港と、「天正遣欧少年使節」のヨーロッパ諸国への派遣。最晩年、純忠は現在の大村市、郡川の畔にある坂口の館で隠居し、喉と肺を患いながらも熱心なキリシタンとして宣教師らと共に過ごし、「天正遣欧少年使節」の帰国を待つことなく静かに息を引き取りました。それは、豊臣秀吉により伴天連追放令が出される約ひと月前のことでした。





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