●キリスト教伝来の地・平戸島 【布教・繁栄】

天文19年(1550)。イエズス会の創始者の一人、聖フランシスコ・ザビエルは、パードレ(宣教師)コスメ・デ・トーレス、イルマン(修道士)ファン・フェルナンデスなどを伴い平戸に上陸。この時ザビエル一行は“木村”という武士の屋敷に宿泊。ザビエルは平戸には長く滞在しませんでしたが、約ひと月の間に木村とその家族に洗礼を授けます。実質、これが長崎県における最初の布教であり、その後、わずかの間に受洗者の数は180人に達したといいます。

ザビエルが都での布教計画のため旅立った後、平戸地方の布教活動は、コスメ・デ・トーレス神父に一任され、木村の家に教会を置きました。ちなみに、「教会」と聞くと、大きな建物を思い浮かべますが、当時は一地方のキリシタンの会合の場所に当てられた場所のことを教会と言っていました。現代においても建物自体は「教会堂」と呼ぶのが正しく、「教会」は信者の集いのことを指すそうです。

信者の数が増えてくると、同じ港町の他の所に住居が移されましたが、まだ教会堂と呼べる建物はありませんでした。

トーレス神父は自分に任された信者をよく育てました。そして、天文22年(1553)、新たに加わった宣教師バルタサル・ガゴ神父が、籠手田(こてだ)家の当主籠手田左衛門に洗礼を授け、その家族の知行であった度島(たくしま)、生月(いきつき)、根獅子(ねしこ)などにキリスト教信仰が広がっていきます。彼らはまだまだ日本語、日本人への知識も不足していましたが、キリスト教の教えは、みるみる浸透していったといいます。

永禄4年(1561)、修道士フェルナンデスの書簡に次のような文章があります。

「すでに造られている教会は次のとおりであります。都に一つ、そこにはパードレ・ガスパール・ヴィレーラがいます。堺にも現在造られていますが、そこには住む者がありません。……平戸には教会が五つか六つあります。……」

ザビエル一行が“木村”という武士の屋敷に宿泊し、木村とその家族に洗礼を授けてから11年。平戸の町にはこんなにも多くのキリシタンの集団ができていたのです。

それから3年後の永禄7年(1564)、平戸に最初の教会堂が建設されました。これは次なる貿易港・横瀬浦が焼き討ちに遭った後のことです。これは、いったん平戸に戻ったフェルナンデスと前年に来日したルイス・フロイス神父が、入港したポルトガル船ドン・ペドロ・デ・アルメイダ船長の援助を受け、松浦隆信道可の許可を得て建立しました。場所は、宮の町の水際から少し離れた小高い丘。ザビエル来訪400年を記念して建てられた「フランシスコ・ザビエル記念碑」(昭和24年/1949建立)の裏手の丘にあたります。教会堂の名前は聖母の被昇天で、フェルナンデスによって天門寺という日本名も付けられた小さくても心地よい建物だったといいます。この教会堂は永禄10年(1567)まで、フェルナンデスの平戸の宣教の中心地となりました。


フランシスコ・ザビエル記念碑(平戸)
写真提供:長崎県観光連盟「旅ネット」


平戸港と平戸城
写真提供:長崎県観光連盟「旅ネット」

深く入り組んだ穏やかなで美しい港、かつて長崎ではじめてポルトガル船が入港し、キリスト教が布教された平戸島。かくれキリシタンとしての営みが続けられてきた集落や、棚田群、牧野などで構成される独特の文化的景観は、2010年2月22日に、国選定重要文化的景観に選定されました。
 
 
★その頃の長崎★
縄文時代前期から弥生、古墳、古代、中世、近世に至る遺物が出土している深堀地区や、平安時代中期、始祖・河原大蔵太夫高満が家臣を伴ってこの地に入部したと伝えられている三和地区、平安時代末期に建立された観音禅寺が現存し、鎌倉時代から交通の要衝であった野母地区など、長崎半島一帯には人々が住んでいた形跡が見られます。そして、現在の長崎市街地周辺は、鎌倉時代から地頭として豪族長崎氏が治めていたと言われています。長崎市夫婦川町にある春徳寺の後山にある“城の古址(しろのこし)”一帯は長崎氏の城砦があった場所と伝えられ、今も石垣などが残っています。鎌倉時代末期の貞応年間(1222〜1224)始祖・小太郎重綱がこの地に下向。その13代目が甚左衛門純景(すみかげ)です。甚左衛門は大村氏の重臣で、後にキリシタン大名として知られる大村純忠の娘婿となりました。永禄12年(1569)には、長崎最初の教会トードス・オス・サントスの建立を許可し自らも入信。洗礼名をドン・ベルナルドといいました。
 
★キリスト教人物伝★ コスメ・デ・トーレス(1510−70)
遊牧の旅を続けた布教指導者
日本における布教の形を作り上げた人物、イエズス会のトーレス神父は、ザビエルに代わり任務を遂行するために不可欠な人物として派遣されました。人間として豊かな人格を有し、外見はとっても肥っていたといいます。スペインのバレンシアで生まれた彼は、ラテン語の教師を勤めた後、司祭となってメキシコに渡りました。その時、フランシスコ会から入会を勧められましたが、それを断り、後に従軍司祭としてスペイン艦隊の遠征に従軍します。そして、天文15年(1546)、彼はモルッカ諸島(インドネシア)でザビエルに出会い、イエズス会に入会。天文18年(1549)、ザビエルと共に来日しました。ザビエルの離日後はその志を継いで20年に渡り九州各地等を転々としながら勢力的に宣教を続け日本で亡くなりました。大村純忠と深いつながりを持っていたトーレスは、長崎の開港、町建てにも尽力しており、事実上南蛮貿易港長崎誕生の立役者でもあります。





【バックナンバー】