文・宮川密義


長崎の歌には、都会で心に傷を負って放浪の旅に出た人が長崎にたどり着き、祈りの鐘の音と静かな街のたたずまい、人情にふれて心を癒される…というパターンがよく描かれています。そんな長崎にも未練心を抱きながら旅に出る“別れの歌”もあります。別れの形はさまざまですが、長崎らしい別れのパターンはどんなものか、発売順に拾ってみました。
 

1.「さらば長崎」
(昭和16年=1941、矢島寵児(やじま・ちょうじ)・作詞、利根一郎・作曲、小林千代子・歌 )


朝霧が晴れていく長崎港を出る船の行く先は上海でしょうか。当時、長崎〜上海間に日華連絡船の長崎丸と上海丸が通っていました。昭和10年には日華連絡船で賑わう出島と長崎の魅力を歌った「長崎行進曲」(東海林太郎・歌)も出ています。
その日華連絡船は戦争とともに影が薄れ、昭和17年(1942)に長崎丸が伊王島沖で機雷に接触し沈没、翌18年には中国揚子江沖で上海丸が事故で沈没して日華連絡船は廃止されました。


帆船も寄港する今の長崎港
美しいソプラノで長崎の魅力を歌い上げた小林千代子は戦前流行した“覆面歌手”の第1号です。朝鮮民謡「アリラン」でデビューする際、黄金色の仮面を付けて現れ、話題を集めました。1年後「涙の渡り鳥」がヒットして小林千代子の名を決定的なものにします。
戦後は昭和25年にクラシック歌手に転向して、芸名を小林伸江に改名し「小林伸江歌劇団」を結成。恩師のオペラ歌手、故三浦環を継いで「マダム・バタフライ」の公演を続けました。
昭和42年に「マダム・バタフライ世界コンクール」を創設、長崎にもたびたびやってきて、38年、グラバー邸に建立された三浦環像除幕の際は立像の前で「ある晴れた日に」を歌いました。



2.「さらば長崎港町」
(昭和27年=1952、平山忠夫・作詞、山内郁夫・作曲、瀬川 伸・歌 )


戦後も昭和27年になると、歌謡界も賑やかさを増してきました。長崎の歌も21曲出でていますし、年初から瀬川伸(せがわ・しん)が「青いガス燈のチャイナタウン」、7月には「バッテン港の蒼(あお)い船」、そして9月にはこの「さらば長崎港町」と3曲出しています。
瀬川伸は今人気の瀬川瑛子の父親で、「君が心の妻」「上州鴉」などで知られます。
「バッテン港の蒼い船」が3本マストのオランダ船や中国船でにぎわう昔の長崎港を歌っているのに対して、この「さらば長崎港町」は新しい時代の長崎港の情景を描写しながら、貨物船の船員が長崎でねんごろになった女性と長崎の街に別れを告げて船出する心情を歌っています。


稲佐山から見た現在の長崎港

 

3.「別れのオランダ船」 
(昭和27年=1952、坂口 淳・作詞、服部良一・作曲、服部富子・歌)


長崎港を出て行く船を見送りながら恋人に別れを告げ、独りで生きていく決意をする長崎娘を、服部富子が兄・服部良一の曲に乗せて歌いました。
服部富子は宝塚の舞台に立っているうち、昭和13年(1938)にテイチクに入社、デビュー作の「満洲娘」が大ヒット。15年には「オランダ娘」のほか「愛国娘」「銀座娘」「北京娘」「南京娘」などを出し、戦前を中心に活躍しました。
戦後はめぼしいヒットはありませんが、この「別れのオランダ船」は、「オランダ娘」の母国オランダで長崎港を偲ぶ情景とは対照的です。


鍋冠山から見た夜の長崎港

 

4.「愛して別れた港町」
(昭和45年=1970、くるみ広影・作詞、くるみ敏広・作曲、長崎二郎・歌)


青い夜霧の横浜、空海が天上寺に釈迦の生母・麻耶夫人(まやぶにん)像を安置したことに由来して名付けられた摩耶山(まやさん)のある神戸、そして石畳がこぬか雨に濡れる夜の長崎〜それぞれの港町で恋をして別れた男の未練心を歌っています。
歌った長崎二郎(ながさき・じろう)は長崎出身で、本名は木村煕(きむら・ひろし)。歌手を夢見て大阪の作詞・作曲家兄弟、くるみ広影・敏広氏に師事、様々な仕事をしながら苦節10年、ようやくつかんだデビュー曲でした。長崎では後援会も出来て、ギター片手に単身で全国を歌い歩くがんばり屋で、期待されていました。



「愛して別れた港町」の表紙

 

5.「さよなら長崎」
(昭和46年=1971、西沢 爽・作詞、司 啓介・作曲、水戸浩二・歌)


冷たくされた男に気強く“さよなら”をしたものの、“長崎の女はいつも泣かされる”と嘆く〜ベテラン作詞家・西沢爽が書き下ろした女の別れ歌です。
歌った水戸浩二(みと・こうじ)は茨城県出身。19歳で東映のニューフェースとなり、「饑餓海峡」など劇場用、テレビ用映画合わせて30本に出演した後、レコード界入りして青春歌謡を歌い続けたもののヒットに恵まれず、テレビの全日本歌謡選手権で10週勝ち抜いての再出発に与えられた歌。
福岡での発表会には、水戸が福岡で働いていたステーキ・サロンの社長の友人で天台院の住職、作家、参議院議員の今東光(こん・とうこう)氏が駆けつけ、後援会長も引受けるなど期待を集めていました。




「さよなら長崎」の表紙

 

6.「長崎のわかれ船」
(昭和46年=1971、鳥井みのる・作詞、佐藤正明・作曲、小野由紀子・歌)


長崎の歌の中の別れには、やはり港と船が欠かせないようです。それに小雨、涙、思案橋、鐘、霧笛…が絡むとムードが深まります。
昭和43年に「思案橋ブルース」と同時に出た「長崎の別れ星」(吉田孝穂・作詞、佐藤正明・作曲、大木英夫・歌)は、キャバレー同士のライバル意識から「思案橋ブルース」に対抗する形で出ましたが、「思案橋ブルース」には及びませんでした。
未練のミノルフォンレコードは3年後、長崎の歌ブームに乗じて、歌詞だけを変えた新曲「長崎のわかれ船」で改めて勝負をかけました。
小野由紀子は「長崎の別れ星」の大木英夫と同じ事務所。「長崎の別れ星」が気に入っていたので、売れっ子作詞家の鳥居みのる氏に頼んで詞を書き換えてもらい、LPとシングル盤に吹き込みました。
小野は45年に出した「他人船」がヒットして人気上昇中の時期で、長崎もののヒットでさらに地盤を固めようとねらい、長崎でのキャンペーンも熱がこもっていました。



「長崎のわかれ船」の表紙



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