I LOVE浜んまち!--歴史ある町に感謝!!

異国の文化が急速に入り、時代の流れが大きく変わった明治時代。浜町にも変化が訪れる。

ハイカラな町へと移り変わる明治時代

明治初期、「浜町」は銀行の町へ。
明治9年(1876)、本通りの中央に旧田辺屋程十郎の屋敷跡(現浜屋)に、長崎警察署が、翌年に第十八国立銀行(現十八銀行)が開設。すでに西浜町のかつて薩摩屋敷があった場所に日本初の私立銀行、三井銀行長崎支店があり、浜町は、2つの銀行を持つ「銀行の町」となった。

明治10年代、商店街形成期。
十八銀行と時を同じくして開業したのが、舶来小間物商「田中屋」。現在のタナカヤだ。残された当時の帳面には、“イギリス木綿”“アメリカ上生金巾”“英吉利ネル”の文字が見える。竹谷屋寿吉郎が浦町(前述)から現在の東浜町へ移転してきたのも明治10年のこと。神力膏、神力湯の免許を得て、薬種商「竹谷健寿堂」を創業。「どんばら膏薬」と名付けた評判となった神力膏のPRマスコットが、今も店頭で出迎えてくれる「浜町名物」布袋さんだ。

竹谷健寿堂
初代の布袋さん
たけや初代の布袋さん

二代目の布袋さん
「浜町名物」二代目現代の布袋さん

明治18年発行『商工技芸崎陽魁』という当時の“長崎名店案内”書には、古い商風の町から脱皮を計り、各店、新しい宣伝法に乗り出すべく、店舗広告が掲載されている。店の全景、店内の模様、看板、舶来の軒燈など、あるいは路上に遊ぶ子どもや、当時流行した洋傘、洋装の女性、西洋人男女、弁髪姿の中国人など、当時の風俗が描かれたとても興味深いものだ。掲載されている広告は、商店・会社・質屋・湯屋など42業種108店。なかでも藤瀬セキの洋酒・飲食店の看板は、当時流行した英語の看板で(同じくロシア語も流行)、長崎ではじめて“レストラン”の文字が踊っていた。

明治期の竹谷健寿堂
『商工技芸崎陽魁』に掲載された
竹谷健寿堂の広告(店頭に複製展示)

この本が発刊された前後には、2006年に惜しまれながらも閉店した二枝鼈甲店(明治16年創業、27、8年頃本通りに移転 [閉店時の場所ではない])や、現存する石丸文行堂(明治16年創業は「石丸文具店」、21年に勝山町より現在地へ移転)が、福岡から進出。また、明治17年(1884)、新地通り(前述)には、西洋料理店「清洋亭」が創業した。

市外開発進み、えごばた改修。
明治19年、本通りと交差するえごばたの改修が行なわれた。これは、前年に死者617名を出したコレラの流行が原因で急速に施行した下水工事。これは、浜町以外の市中全域で行なわれたもので、板石を船底型に敷き詰め、危険防止のため、溝岸には“足留め”と呼ばれる一尺角の石が並べられた。今もししとき川の一部に見られる敷き石などは、この時の改修工事の名残りだという。えごばたの改修を終え、本通りはひと際目立つ通りへと生まれ変わった。

明治22年、長崎市発足時の周囲の町々。
長崎奉行西役所のお膝元の町として浜町より10年早くできた築町は、大橋の架かる中島川をはさんで、浜町と競い合った町。もともと商家筋の町だった築町は、鎖国初期から中期までは、浜町をしのぐ賑わいを見せていたが、その後は浜町に一歩越される存在となった。明治時代の言葉に「築町は卸の町、浜町は、小売りの町」というのがあるという。

一方、同じく鎖国初期の延宝6年(1678)、町名を本鍛冶屋町から改称し、様々な業種の店が軒を連ね繁栄した万屋町も、しだいに浜町の本通りにお株を奪われ寂れてしまう。明治時代の万屋町は、町内の万橋脇に新設された魚市場にともない、数多くの魚問屋が建ち並ぶ「魚問屋の町」となった。

鍛冶屋町・本石灰町・船大工町・本籠町――これらの町は、かねてから花街丸山へ、浜町へ出る外国人ルートとして賑わっていた。通りには早くから鼈甲店、漆器店、貴金属店、骨董屋、小間物店など外国人向けの店が建ち並び、明治22年頃も、その様子に変わりはなかった。

あかりが灯る!祭りを重んじる!
東京に電灯がついた明治20年から6年後、長崎にも電灯がつき、熊本に継ぎ、九州で二番目の電灯都市となった。この長崎電灯会社の本社も、浜町本通り、唐反物・紡績糸売捌所を営む長崎紡績所の山口徳太郎方に設けられた。ランプの時代から電灯の時代へと移り変わり、浜町商店街は店内の意匠、陳列、装飾に今まだ以上に力を入れはじめる。また、当然のことながら夜間営業へも影響が及び、革命をもたらした。

そのように近代化へと進む一方、「水あるところに神あり」と、江戸時代から続く信心深い行事「川祭り」が東浜町内唯一の年中行事として行なわれていた。しかし、浜町に限らず昔から各町内で行なわれていた川祭りも、かつてはその費用全部が奉行所持ちだったのに対し、明治以降、初代知事・沢宣嘉が「左様な行事は役所では致さぬ」といい、以来、すべてを町内で賄う自主的な祭りとなっていく。由来は不明だが、東浜町の川祭りのご本尊は、浦町にあった2つの井戸(現浜屋の裏、旧春雨タクシー辺り)だったという。祭日は基本的に5月15日。神主を招きお祓い、樽開きをする。また、甘酒を丼に入れて町内残らず配るのがしきたりだった。旧幕時代からの慣習で、世話方は浦町が行ない、新旧入れ替わる商店街の親睦行事として、町内の補助金を潤沢に使って派手に行なわれていたようだ。

大正、昭和。振り返ればいつも「変化」がある。

大正、昭和と、三階建て、洋風建築、鉄筋コンクリート建てなど、老舗商店は時代を先取りする建物に衣替えしていく。そして、戦前、戦中、戦後の時代を経て、浜町はさらに大きく変化を遂げていくのだ。
※ 2009.8月 ナガジン!特集「時を刻んだ長崎の時計」参照

戦後、アーケード建設などで装いを新たにしながら賑わいを増してきた一方で、いつまでも、のんびりした温かさが残っている「浜んまち」。

嘉永4年(1851)創業の高橋呉服店、明治15年(1882)創業の香りと灯りの店 きはら、明治25年(1892)創業の洋傘の老舗ハヤシダ、バックの市丸、明治26年創業の大曲洋傘店、前述の石丸文行堂、竹谷健寿堂……。数々の老舗店が今も点在する「浜んまち」だが、340年もの間、新旧入れ代わりを繰り返しながら、その時代、その時代を築き上げてきたという歴史がある。

田栗氏は浜町について『長崎浜の町繁昌記』に、こう記している。

「長崎的なものが、そこはかとなく漂っている」。
 
 

最後に--。
時の流れによって、“まち”の形が変化していくのはいたしかたない。しかし、草創期とほぼ変わらない道筋に長崎の風土を漂わせながら、私達長崎人の心に、いつまでも誇りと安らぎを与える存在であってほしいという願いがある。

♪ハァー 夢に見た見た 夢まで通よた ほんに浜市 パラダイス
  店が客呼ぶ お客が店を 呼んであしたへ 伸びる街
  ソレ 嬉しか筈たい 浜市音頭 ハイハイ繁昌の 花の顔
                   (「ながさき浜市音頭」四番)

誇り高い歴史と、多くの人の愛着を集めた町並み風情。それを守り伝えていくことが、きっと長崎らしい文化継承の形なのだ。

我らの浜んまち
我らの浜んまち

参考文献
『長崎浜の町繁盛記』田栗奎作(浜市商店連合会)

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