I LOVE浜んまち!--歴史ある町に感謝!!

甦る遠い昔、江戸時代の「浜町」遠望

初代「鉄橋」を思う。
今も浜町の代名詞となっているのが「中央橋」。これはまさに築町と浜町を結ぶ「鉄橋」のこと。この前身となる橋は、寛永9年(1632)に6月、浜町の完成から24、5年頃に架設された「大橋」だ。当時は、もちろん木造橋。しかし、それは「廊橋」と呼ばれるもので、同様の廊橋に中島川上流の堂門川に架かる「堂門橋」(現大手橋)があった。堂門橋について、江戸中期の長崎の郷土史家 熊野正紹(くまのしょうせいしょう)著『長崎港草』に以下のように記されている。

「郭門画棟朱欄金碧交々輝ケリ」

堂門橋は、彩色も鮮やかな城門風の門に屋根のついた美しい橋だったようだ。大橋の彩色については不明だが、堂門橋より2倍以上もある屋根付きの堂々たる橋だったことがうかがえる。

※ 2011.1月 ナガジン!特集「異国の薫り〜明治期の長崎」参照

意外な事実、浜町に門ありて……。
また、延宝元年(1673)からは、唐蘭貿易が糸割符仕法から市法賃物仕法、いわゆる「市法商売」となり、長崎の繁栄に拍車をかけた。市内各町の要所には町民に「町木戸」あるいは「木戸」と呼ばれる柵の門が建てられ、防犯はもとより、抜け荷対策がなされていった。浜町界隈では、万屋町側に3つ、銅座町側に2つ、合わせて5つあったという。

今はなき長崎初の「浜町夜市」。
文政元年(1818)、浜町で夜市がはじまった。「大川」(現中島川の古称)の川岸筋か、はたまた現在の観光通り筋か、場所は不明だが、祭日でもない普通の日に、盛り場が突如出現! ぶらりと出掛けて楽しむことができる「浜んまち」のルーツとも呼べる賑わいが広がっていたようだ。当時の夜市風情を垣間見れる唯一の資料、向井元成(向井去来の弟)など、歴代、長崎聖堂の塾主(祭酒)を務めていた向井家8代目当主・向井閑斉の『閑斉日乗』という日記には、その様子が次のようにある。

「十月九日晴、大人と霊鷲菴(下筑後町)に遊び、夜、阿象と共に浜の町の繁盛ぶりを見物する。思うに、これは前々より浜の町でよろずの品々を集めて売ることを、役所に請願していたもので、値段はふつうより非常に安い。これを市という」

明治前期の「水帳」からわかること。
水帳とは、土地台帳のことで、『長崎浜の町繁昌記』には、明治元年(1868)の東浜町の水帳の略図が掲載され、前述した「町木戸」の場所も記されている。(原図は長崎歴史文化博物館所蔵)本町通り(現浜市アーケード)の道幅は3間2尺(約6m)、長さ121間3尺余(約221m)と、浦町〈裏丁〉(現浜屋、浜屋別館の間の裏通り)の道幅2間(約3.6m)、新地通り(現S東美から浜市アーケードへ抜ける裏通り)1間半(約2.7m)ほか、えごばたが存在していた現在のベルナード観光通りも道筋、道幅ともに現在とほぼ変わっていないことがわかる。えごばたには、2ヶ所、本通りと新地通りに小さな石橋も架かっていた。

浦町
かつての浦町

新地通り
かつての新地通り

長崎新名物「鉄橋」。
木造橋である「大橋」から「鉄橋」となったのは、明治元年。長崎の近代化はこの鉄橋からはじまったといっても過言ではなく、そしてまた、明治からの華やかなりし浜町の歴史も、この橋によってはじまった。この鉄橋を創案したのは、日本近代活字の祖として知られ、当時、長崎製鉄所の頭取を務めていた本木昌造。日本最初のこの鉄橋は、瞬く間に新名所となり、遠方から見物客も多数かけつけたという。総工費はなんと!約16500両。金繰りのよくなかった長崎製鉄所や役所のお金だけでは賄えず、民間からの借入金や有志の冥加銀(租税の一種)で賄ったといわれ、一説には、豪商の多かった浜町が全町をあげて協援したともいわれている。

♪金であるべき銭が紙で 木であるべき橋が金とは
 こりゃ さかさまじゃ 世も末じゃ エー ションガラ エー


鉄橋が名物となった頃、当時流行していた「ションガラ節」にのせた、こんな替え歌がはやったとか。

※ 2010.2月 ナガジン!特集「長崎の印刷物」参照


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