長崎経由で伝わった
中国生まれの音楽
「明清楽」という言葉を耳にしたことはあるだろうか? 「明」「清」ともに、中国の元号であり、まさしくその時代に長崎に伝わった音楽のことだ。元亀元年(1570)の開港以来、長崎には外国文化が押し寄せた。その中でも特に市民に浸透したのは中国文化だった。明楽は、寛永(1624〜1644) 年間、明朝に仕えた楽人魏琺(ギホウ)という人が来崎、次いでその子孫の魏皓(ギコウ)が京都に出て広め、一時流行したが、安永(1772〜1781) 頃から衰退した。
一方清楽は、文政の頃(1818〜1830)長崎来往の清人金琴江から伝わった音楽で、月琴・胡琴・提琴・阮咸・三琴・琵琶・携琴などの弦楽器、清笛、洞簫・哨吶などの管楽器・木琴・拍板・雲鑼・金鑼・小・太鼓・片鼓などの打楽器を用いた。演奏場には三角形の小旗を立て、大円卓を巡って列座。太鼓を打ち、笛で一節を吹き、次にこれに和して他の楽器を一斉に弾奏するというものだ。
この「明」「清」合わさったものが「明清楽」。江戸末期から日清戦争頃まで流行した俗曲で、清楽の声楽を主とし月琴などで伴奏する音楽だ。現在も長崎明清楽保存会によって受け継がれている。清楽に不可欠な古琴(胡弓など中国の弦楽器の総称)が日本で演奏されるようになったのは、もちろん、長崎に清楽が伝わってからのことだ。オランダと中国だけに交流を持つ鎖国政策をとった日本の窓口は長崎。鎖国後2年目にして、平戸からオランダ商館が長崎の出島に移されたのが寛永18年(1641)。今年は出島オランダ商館370周年を迎える記念の年だ。中国はちょうどその頃、明の時代から清の時代に変わる変換期で、明の貴族は清の圧政を恐れ、特に南部の漢民族で長崎へ逃げてくる人が増えたという。寛永6年頃魏之炎(ギ シエン)という豪商が福建省から来崎。長崎の明楽は唐人屋敷の建設や崇福寺の創建にも貢献したこの渡来人で魏之炎によって広められた。隠元禅師を興福寺から崇福寺の住職に招き、宇治の万福寺住職として送ったのもこの人。崇福寺の「大雄宝殿」扁額にその名が刻まれている。将軍家光からは、出身地「矩鹿」にちなんで「矩鹿(おおが)」の日本名を許されている。
楽器には唐琵琶、月琴、明笛、胡琴、片鼓、柏板、木魚、シチリキ、それに尺八(簫)などが19種類。初代の魏之炎が本国から楽器を持参して魏家に伝えた。曾孫の魏君山が民部と改姓、彼は上京して明楽の師範となり、酒井雅楽頭(さかいうたのかみ)(文化担当の家老職)の扶持を受ける。そして、安永元年(1772)には4代矩鹿民部が河原御殿泉水(かわらごてんせんすい)で船楽を奏し一大旋風を起こした。宗教はもちろん、書画や音楽は全て「黄檗文化」が「五山文化」としてもてはやされていた時代のことだった。
「明清楽譜摘要」(佐々木僊女編輯)
に描かれた「明清楽演奏の図」
/長崎歴史文化博物館所蔵
清の時代(1644年〜)になると、明楽は徐々に衰え、江戸時代末期になると清楽が中心に。長崎でも林得建という人によって1830年頃から清楽が伝えられた。後にこの明清楽を広めたのは、書家の小曽根乾堂ら。乾堂によって小曽根流として継承され、長崎の明清楽として今日まで大事に伝承されてきているのだ。坂本龍馬の妻の「お龍」が乾堂に学び月琴を弾いた話は有名だ。
幕末から現在まで続いている継承の系譜は、小曽根乾堂−小曽根キク−中村キラ・渡瀬ひろ子−山野誠之(長崎明清楽保存会会長)。現在長崎県の重要文化財に指定されている。
現在「長崎まちなか龍馬館」に展示中の
小曽根家伝来の月琴/小曽根吉郎氏所蔵
この「明清楽」をベースとしたもので、長崎文化に根付いた代表的な歌曲の一つで九連環(きゅうれんかん)がある。
「見ておくれ、わたしがもらった九連環。九とは九つの連なった環のことよ。両手で解こうとしても解けません。刀で切ろうとしても切れません。ええ、なんとしょう」
「どなたかいませんか、解いてくれる人。その人がいたら夫婦になってもいい。その人はきっと好い男」
切ろうとしても切れない男女の仲を歌った歌詞となっている。
幕末の頃から明治にかけて日本で大流行した九連環は、数々の替え歌を生んだ。代表曲の『かんかんのう(看々踊り)』は文化、文政の頃(1804〜1830)、江戸や大坂で大流行し、元歌の情緒的な歌詞とは似ても似つかぬ卑猥な歌に変わったため江戸では町奉行が禁止令を出す騒ぎにまで発展した。古典落語『らくだ』にも登場する『かんかんのう』は明治になるとさらに進化。『ホーカイ(法界)節』や『さのさ節』『むらさき節』『くれ節』『鴨緑江節(おうりょっこうぶし)』『満州節』『とっちりちん』などと形を変えながら、流行り続けた。そして明治には『梅ケ枝節(うめがえぶし)』が生まれ、1937年(昭和12)には『もしも月給が上ったら』が生まれた。
「野球するなら、こうゆう具合にしやしゃんせ…」
大正13年(1924)に松山市で行なわれた野球大会の打ち上げの宴で、お座敷ゲームとして誕生したお座敷ソング『野球拳』もこの流れを受け継ぐものである。ここまでくると馴染みがある話。こんなふうに、長崎発の明清楽『九連環』は日本流行歌謡の源流の一つとして、今も生き続けているのだ。
※2001.12月 ナガジン!歌で巡るながさき「明清楽「九連環」の軌跡」参照
※2003.11月 ナガジン!歌で巡るながさき「長崎の替え歌」参照
最後に。
いつの時代も音楽は人の心に垣根なく入りこめる、不思議な力を持っている。 今、普通に街にあふれている音楽は、様々な人と文化が絡み合ってできた歴史の結晶だと考えると断然おもしろい。馴染みの楽器にも、どこかしらで長崎の町が関わっていると思うと、なお興味が湧いてくる。吹奏楽のルーツは軍楽隊? 野球挙のルーツは明清楽? 音楽も長崎経由で全国に広まっていった。
参考文献
『オラショ紀行』皆川達夫著(日本基督教団出版局)
『ながさきことはじめ』(長崎文献社)
『長崎県文化百選事始め編』(長崎県)
『異国往来長崎情緒集』大谷利彦著(長崎文献社)
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