典礼の聖歌がおさめられた『サカラメンタ提要』は1605年、長崎のコレジヨで印刷された
<上智大学キリシタン文庫データベースより転載>


海外から伝わり形を変え日本固有のものとなった音楽。また、今もほぼ伝来した当時のままの形で伝承されている音楽。海外音楽をルーツとした音楽は長崎を通過点として全国各地へ。音楽もまた、様々な海外文化同様に長崎で花開いていた。


ズバリ!今回のテーマは
「音楽ことはじめを探せ!」なのだ




キリスト教と共に
伝来した西洋音楽

日本に西洋音楽が伝わったのは、やはり長崎。平戸の地だった。天文19年(1550)、布教のために平戸を訪れたフランシスコ・ザビエルは、住民にキリスト教を広めていった。約40日で、平戸以前に約1年間滞在した鹿児島よりも多くの信徒を得たという。しだいに教会も建てられ、ミサでは、住民がラテン語の聖歌を西洋音階で歌った。これが日本における西洋音楽の事始めだと考えられている。それから約30年の時を経た天正7年(1579)、島原半島口之津港にイエズス会巡察師ヴァリニャーノ神父を乗せた南蛮船が入港した。
その時、荷揚げされた中には、小型のパイプオルガン3台があった。翌天正8年(1580)の春、日本で最初のセミナリヨ(神学校)が有馬に建てられ、このセミナリヨで学んだ4名が天正遣欧少年使節団としてローマへと旅立った。



イエズス会巡察師
アレッサンドロ・ヴァリニャーノ
『天正遣欧使節肖像画』 /京都大学附属図書館所蔵
http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/tensho/image/te01/Te01s001.htm

実は、このヴァリニャーノが来日して以来、キリスト教音楽が急速に発展していく。有馬の『神学校内規』には、「音楽、唱歌も教科の中に入れる。才能のある少年はクラヴォ、モノコルディオ、ギターその他の楽器の演奏を学び、それによって教会の祝祭を盛大にする。」とあった。後にオルガニスト、聖歌隊長として長崎で活躍したシオヅカ・ルイスは有馬セミナリヨの出身だった。
ヨーロッパ諸国の旅から帰った天正遣欧少年使節の一行は、天正19年(1591)、京に上り、豊臣秀吉の前で、日本で初めて西洋音楽を演奏し、歌唱したといわれている。そのときの楽器は、鍵盤付きのクラヴィオ、アルパ(ハープ)、マンドリン型リュート、バイオリンの前身であるラベイカの4種だった。


典礼の聖歌がおさめられた『サカラメンタ提要』は1605年、長崎のコレジヨで印刷された
/上智大学キリシタン文庫データベースより転載

秀吉が聴いたラウテ〈ルネッサンスリュート〉
石井高制作/長崎歴史文化博物館所蔵

外国側の史料によれば、天文20年(1551)にザビエルが用意した献上品のひとつにクラヴィコードがあり、この中世以来の古い鍵盤のある打弦楽器は、天正9年頃には各地の教会に配置され日本人が演奏していたのだとか。また、ザビエルが登城の際は、ポルトガル船の船長は本船から小船を3艘出し、それに絹旗を立て、景気付けのために「シャラメラ」と「フラウタ」の音楽を奏しながら進んだという。「シャラメラ」とはお察しの通りチャルメラ=トランペットの類い。チャルメラは、ポルトガル語の「シャラメラ」が転訛したもの。そして「フラウタ」はフルートだ。西洋音楽は、“キリスト教会の典礼音楽”という形で伝来し、全国に広がっていったということだ。

さて、そんなキリスト教会の典礼音楽として伝わった西洋音楽を、秀吉はさておき、一般の日本人が耳にしたのはいつの頃だろうか。長崎でいえば、慶長6年(1601)に落成した現在の県庁敷地に建造された、通称 岬の教会「被昇天のサンタ・マリア教会」に掲げられた大時計の音だったのではないだろうか。
※2009.8月 ナガジン!特集「時を刻んだ長崎」参照

そして全国的には、やはりペリー率いる黒船が浦賀にやってきた嘉永6年(1853)あたりのようだ。それは海軍、つまり軍隊の楽隊だった。当時のアメリカ海軍の楽隊の楽器編成は不明だが、トランペット、ホルンのラッパ類に、フルート、クラリネットの笛、そして中太鼓、大太鼓などの打楽器という7、8人編成だったことが、残された絵などから推測されているそうだ。

そこで、長崎の登場。実は、黒船来港よりさらに10年以上前の鎖国時代(1840年代)、唯一海外への窓口だった長崎にはオランダの軍楽隊が来日していた。16人程の編成だったというが、その中には、当時最新の楽器サックス(サクソフォーン)もあったとか。サックスの誕生は1840年代のベルギー。当時の目新しい最新楽器も海を渡り、長崎の空の下で音楽を奏でていた。さらに安政年間(1854〜1859)には、長崎奉行所内にオランダ海軍のマーチ譜を伝習する部門ができ、幕末に至っては薩摩・長州・土佐など国内にも「鼓笛隊」が誕生した。
まさしく西洋音楽は、まず長崎に伝わり、東へ、北へ、南へと伝播していったことがわかる。余談になるが、西洋の楽器自体が日本に入ってきたのは、明治を迎えた明治2年(1869)。イギリスより薩摩藩に軍楽隊の楽器一式(主に金管類)が届き、軍楽隊長フェントンによる指導(信号ラッパの吹き方、楽譜の読み方など)が始まったのだそうだ。そして明治4年(1871)には、陸軍および海軍に「軍楽隊」が正式に発足。実はこの軍楽隊が式典で演奏する「国歌」が必要になり、明治13年(1880)に生まれたのが『君が代』。作曲は宮内省式部雅楽課、奥好義氏で、旋律は雅やか。しかし、ドイツ人の軍楽隊教師エッケルトが軍楽隊向けのハーモニーに仕上げたのだそうだ。
 

町に!学校に!
あふれだす音楽

時代は下って明治12年(1879)。全国で18番目に設立されたプロテスタント系女子学校「活水女学校」(現長崎活水学院)では、音楽教育を重視。長崎の近代音楽教育は、この活水女学校に始まる。オルガン、ピアノ指導の実習費は高額であったにも関わらず、年々盛んになっていき、明治23年(1890)には、器楽のレッスンも開始、3つの合唱グループができてアメリカ最高の音楽学校と同等の指導が行なわれていたという。同時代の『フェリス女学院』のカリキュラムを見ても音楽関係はごくわずか。活水の音楽教育は全国で先端をいくものだった。

また、活水の音楽教育より10年ほど遅れはするが、市民の近代音楽愛好者による団体結成の動きが始まった。明治30年、当時の長崎市長の下『長崎音楽会』が発足。また、『浦上天主堂ブラスバンド』は、明治18年に来日したフランス人のアレーネン神父が自国より取り寄せた楽器で組織したブラスバンドは、素晴らしく腕を磨き、その名は全国に知られるものだったという。さらに驚くのが『江戸町吹奏音楽隊』の存在。長崎くんちの踊町であった明治29年(1896)、江戸町の奉納踊りは、可愛い子どもの兵隊教練と看護婦による演し物で、それに20余名編成の吹奏音楽隊と十数名の鼓笛隊が加わり、異彩を放ったという。 もちろん、音楽隊を町内で組織していたのは日本ではじめてのこと。さすがはどこよりも先端をゆく長崎である。

そして、明治14年(1881)。活水学院の創立者の一人、ギール女史が活水女学校音楽科でオルガンピアノの指導を始めた。記録に残る上で日本初の洋楽教育。当時の長崎には日本で最も進んだ洋楽教育があったようだ。

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