【 2.大浦国際墓地 】



●JR長崎駅からのアクセス

市電 /

長崎駅前から正覚寺下行きに乗車し、築町電停で反対側線路へ渡り石橋行きに乗り換える。
その際、料金を支払い「乗り換え券」を貰う。
終点石橋で下車、徒歩7分。

バス /

バス停長崎駅前東口から田上、大平橋行きに乗車し、川上町で下車、徒歩2分

車 /

長崎駅前から約10分。


大浦国際墓地は、居留地から稲佐悟真寺まで船で遺体を運ぶのが不便だったため、居留地の近くに文久元年(1861)に開かれたもの。

ここには船員さんが圧倒的に多く、事故や自殺、病死など、遥か異国の地に来て母国へ帰ることもなく亡くなった多くの男達が眠っている。


明治時代中期の長崎港

★ブライアンさん
「彼らの波乱の生涯から、大浦国際墓地は事故と喧嘩の墓と呼べるんじゃないでしょうか」

居留地跡の南山手、東山手から程近い川上町の丘にきちんと列を成した墓地区域。
ここ、大浦国際墓地に眠る人物の4人の「物語」を紹介しよう。


外国人居留地時代、中国や日本の港町を巡業する劇団があった。
住民たちは、劇団の芝居やコンサート、その他の興業物に胸躍らせいそいそと出かけていた。
これらの劇団は長崎公演の数日前には必ず呼び物に関する広告を英字新聞に掲載。
当日、大浦31番地のさして広くない公会堂は目白押しの住民で埋め尽くされ、後日各紙がその催しについて詳報したという。
明治17年(1884)12月、旅回りの演奏家の一座が来崎。
オペレッタや演奏による余興を披露した。
リードテナーはイタリアのペザーロ出身で、欧州では名のある66歳のオペラ歌手アゴスティーノ・パグノニだった。
しかし、彼にとって長崎は最後の寄港地となる。
彼は一座が滞在していた「ベル・ヴュー・ホテル」(現全日空ホテルグラバーヒル所在地)で、急病のため死去。
仲間が大浦国際墓地に建てた立派な墓碑には「偉大なるテナー歌手」という賛辞が刻まれていたという。

しかし、長年、雨風にさらされていたためか、風化が進行しており、十字架、碑文が刻まれた面は残念ながら崩れ落ちている。


スコットランド生まれのケネス・R・マッケンジーは、長年インドと中国で生活。
安政6年(1859)に来崎した。
同年7月に長崎港が正式に開港されたものの、外国人居留地が建設されていなかったため、マッケンジーは大浦の妙行寺附近(石橋電停近くのオランダ坂沿いにある寺)の日本人民家を借りて住まいとしている。
この民家は長崎最初のフランス領事館としても兼用され、初代領事はマッケンジーだった。
彼は領事としての責務や自らの仕事に加えて、居留地最初の消防隊の隊長も兼務していた。
元々マッケンジーは、上海に本社を置く「ジャーディン・マセソン商会」代表として来崎した。
文久元年(1861)、同商会代表者として大浦2番地を借り、ここを営業拠点とした。
更に「P&O汽船会社」の代理人として、大浦15番地も借り受け、同年、南山手の居留地完成後には南山手1番地も借りて自宅にした。
同年5月、マッケンジーが中国へ戻り、トーマス・B・グラバーがジャーディン・マセソン商会の長崎での代理人となる。
また同時に南山手1番地の土地も引き継ぎ、ここにグラバー邸を建設した。
マッケンジーは慶応2年(1867)初頭に再び来崎、「グラバー商会」を手伝う。
彼はグラバーのパートナーとなり、新設された大阪支社の支社長として勤務。
明治3年(1870)10月の同社倒産までその職にとどまった。
その後、健康を害したマッケンジーは、友人であり仕事のパートナーでもあったトーマス・グラバーのそばで再び暮らすため、大阪から長崎に戻って来たらしい。

明治6年(1873)11月5日に南山手のグラバー邸で死去。
日本における英国人商人の先駆者としてのその長く華やかな生涯に終りを告げた。


イギリス人のボナム・ウォード・バックスは若くして英国海軍に入隊。
中佐、艦長と順調に昇進し、3度来崎している。
4度目の寄港の際に突然赤痢にかかり長崎で死去。40歳だった。
彼は長崎に埋葬された人々の中で、この町の印象を手記に残した数少ない人物の一人。
彼が長崎の美しさに魅了され、とりわけ長崎の数多くの丘の上に造られた墓地の光景に興味をそそられたことがその文章ににじみ出ている。

「長崎港は一際美しく、その周囲に屹立(きつりつ)する山々のすぐ麓まで水際が迫っている。港口附近の無数の島々や陸地全体が、亜熱帯気候と頻繁な降雨のために、目もさめんばかりの青々とした緑に覆われている。町から見上げる丘の中腹には、墓地に囲まれた沢山の寺が密集。日本の墓は…どれも木々に囲まれた美しい場所に位置する」

このような言葉を書き記した2年後に、自らの墓が長崎でよく見られる高台の一つの、木立ちに囲まれた美しい場所に建てられようとは彼自身予想だにしなかったことだろう。


大浦国際墓地に埋葬された人々の多くは、この町の長期居留者ではなく、航海中または港内停泊中に世を去った船員たちだ。
英国船「イカルス号」乗組員ロバート・フォードジョン・ハッチングス(共に23歳)。
明治維新へ大きな影響を与えたといわれる丸山町水兵事件の被害者もそんなイギリス人船員だった。

下松川(大浦川)の河畔に多くの外国人酒場ができる以前の外国人居留地初期、英国船「イカルス号」に乗って長崎に来たこの2人は慶応2年(1867)8月5日の夜、丸山に遊びに行き酔っぱらい、坂のどこかで寝てしまったところで誰かに刀で殺されてしまった。

イギリス領事は怒って、長崎奉行に犯人を早く捕まえるよう訴えた。
最初海援隊ではないかと疑われたが、嫌疑を持たれては困ると思った土佐藩が必死に捜した結果、筑前藩の武士ということがわかった。
泥酔して通りに寝ている英国人船員の姿が、近くの茶屋で酒を飲んでいた筑前の塾生たちの目に触れ、一行の中の古参の者が刀を抜き、その不運な水兵たちを冷酷にも弄ぶかのように滅多切りにしたというのが真相らしい。
事の次第を聞いた筑前の役人は下手人に縄をかけ、切腹を命じた。
国際的な問題となったこの事件は結局筑前藩がこの2人の家族に賠償して、これに加わった人は切腹ということで決着した。

この事件の発生前にも侍による米国人水夫殺害事件が長崎で起こっていた。
両事件の成りゆきをみた英国側は「江戸幕府は港町を徘徊する浪人から外国人居留地を守る力なし」と判断したという。
事件が遅まきの解決を見た頃には、幕府は崩壊、実権は維新の志士らの手にあった。


丸山界隈


【 1.稲佐悟真寺国際墓地 】
【 3.坂本国際墓地 / 新坂本国際墓地 】


||[周辺地区地図]||



【バックナンバー】
2002.02.04.「シーボルトも歩いた道」
2002.01.04.「長崎でチャイナに出会う」
2001.12.01.「冬の長崎に行ってみよう!」
2001.11.01.「寺町界隈ぶらり散歩道」