稲佐山に向かって煉瓦塀が続く坂段を上ると両側に無数の中国人墓地が広がる。
上るにつれ、見るからに新しいとわかる中国人の墓石を目にするが、今も子孫が長崎に住んでいるのだろう。
彼はドイツ系アメリカの商人で、開港後の安政6年(1859)に長崎へ来航。
外国貿易商社「カール・ニクル商会」の共同経営者となり、明治2年(1869)1月、37歳の若さで亡くなった。
彼は死ぬ時、自分の財産の全てを丸山遊女・玉菊に与えている。
玉菊は彼を深く愛していたため、残りのお金も貧窮している人たちに与え、玉菊自身は貧しい中に生涯を終えたという。
灯籠の台に丸い舵取りをかたどった中に十字架を入れた立派な墓碑が、現在もウィルケンスと玉菊との遠い恋物語を語っている。
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