●新しいキリスト教信仰【復活】

信徒発見の出来事vol.9 大浦天主堂の創建と信徒発見【復活】をきっかけに、キリシタンであることを表明したが故の弾圧に苦しんだ人々は、県内各地に存在していました。しかし、明治6年(1873)、禁教の高札の撤去によってキリスト教信仰が黙認されると、政府による弾圧もなくなり、苦しみに耐えながら信仰を守り続けた多くのキリシタンにとって新しい時代がやってきました。

彼らは、さっそく「神の家」である自分達の教会堂を求め、その建設に向け動き出します。「抑圧からの解放と教会への復帰の喜び」――教会堂は、250余年もの間、代々受け継いできた崇高な精神を表わす象徴的なものだったのです。
「牢屋の窄(さこ)」事件vol.10 信仰の表明による復活と弾圧【弾圧】で多くのキリシタンが苦しんだ五島・久賀島(現五島市)では、明治14年(1881)、浜脇教会として木造の教会堂が建設されました。昭和6年(1931)、新たな教会堂の建設に伴い移築されたこの教会堂は、旧五輪教会堂として国の重要文化財に指定されています。海辺に佇む質素な外観の木造教会で、ゴシック様式の内部意匠を持ち、明治初期の教会堂として貴重な建造物です。このほかにも、以下のように県内各地に多くの教会堂が建てられました。
旧五輪教会堂
写真提供:長崎県観光連盟「旅ネット」

1882年
1893年
1902年
1908年
1918年

1919年
出津教会堂(外海・国指定重要文化財/煉瓦造)
大野教会堂(外海・国指定重要文化財/石造及び木造)
黒島天主堂(佐世保・国指定重要文化財/煉瓦造)
野首教会(小値賀〈現旧野首教会〉・県指定有形文化財/煉瓦造)
田平天主堂(平戸・国指定重要文化財/煉瓦造)      
江上天主堂(下五島・国指定重要文化財/木造)
頭ヶ島天主堂(上五島・国指定重要文化財/石造)


出津教会堂
写真提供:長崎県観光連盟「旅ネット」




田平天主堂
写真提供:長崎県観光連盟「旅ネット」

教会堂が建てられた地は、弾圧を避け潜伏したキリシタン達が代々信仰を継承し続けた場所。辺境の地にひっそりと建てられたそれらの教会堂は、厳しい暮らしの中で自らの財産と労力を捧げた、彼らの誇るべき「信仰の証」となりました。

明治から大正期に建てられた長崎の教会堂の中には、木造の聖堂のほか、今も堂々たる風格で佇む煉瓦造や石造などの立派な教会堂も数多く建てられました。これらの教会堂は、教会堂建設・洋風建築技術を外国人神父が、鉄川与助などの日本人建築技術者に直接指導し、日本の伝統的技術に基づく創意工夫も相まって建設されました。よって、西洋と東洋の建築文化が融合された独特な意匠が見受けられます。五島列島の教会堂では、内部装飾に椿のモチーフを取り入れる、あるいは、ステンドグラスに花模様を用いるなど、地域的な特徴も見られます。

そして、今も入り江や山間部の斜面地などに建つこれらの教会堂は、周囲の集落風景にとけ込み、苦難の中、継続されてきたキリシタン信仰を背景とした文化的景観を形成していることを実感します。

歴史、建造物、文化……その様々な価値において、改めて長崎の教会群とキリスト教関連遺産が注目されているのです。
 
★その頃の長崎★
県内各地に、教会堂が建設されはじめた明治中期。長崎も海外文化が大いに取り入れられ、近代的な町へと変貌を遂げつつありました。洋風建築物は、開国後から、居留地に数多く建てられましたが、明治も中頃になると、より規模の大きな建物も建設されるようになりました。現存する建物では、フランス人でマリア会修道士セネンツの設計により建設されたロマネスク様式の赤煉瓦造りの洋館マリア園(明治31年(1898))、日本建築界の異才といわれた下田菊太郎が設計した、石造及び煉瓦造の市内最大級の洋館である旧香港上海銀行長崎支店記念館(明治37年(1904))、大浦海岸通りに面する煉瓦造二階建て、英国技師ウィリアム・コーワンの設計で建設された旧長崎英国領事館(明治41年(1908))などなど。また明治31年には、鉄道長崎本線が長崎(現在の浦上駅)まで全通するなど、この頃には長崎の町も近代的な施設や設備が整えられつつありました。
 
★キリスト教人物伝★ ド・ロ神父(1840-1914)
外海文化を築いた聖なる開拓者
今も「ド・ロ様」の名で地域の人々に親しまれ続けるマルコ・マリ・ド・ロ神父は、1840年、フランスヴォスロール、ノルマンの血を引く貴族の家庭に生まれました。1865年に司祭に叙階。その2年後にパリ外国宣教会に入会しました。そんなド・ロ神父を日本へと誘ったのは、信徒発見に立ち会ったプチジャン神父。それは、日本の信徒の教育のために、印刷技術を身につけた宣教師を求めてのことでした。そんな、ド・ロ神父が、外海地方の主任司祭として赴任してきたのは明治12年(1879)。特に積極的に取り組んだのは授産事業でした。婦女子のために授産場を開始し、明治16年(1883)には救助院を設置。製粉、機械織り、裁縫、パン・マカロニ、そうめんなど、生活手段としての技術の修得と、読み書き・算術などを教え、地域住民の生活の向上をはかりました。また、さまざまな知識と能力を持ち合わせ、農機具や品種改良、開墾、教育活動、移住事業、診療所、託児所の設置など、私財を投じて取り組みを展開しました。出津教会堂のほか、旧出津救助院や大野教会堂、大浦の旧羅典神学校や旧長崎大司教館もド・ロ神父の設計によるものであり、その建築技術も優れていました。困窮を極めた暮らしをしていた外海の人々を魂と肉体の両面から救い、生涯の全てを捧げた偉大なるド・ロ神父。大正3年(1914)に永眠した彼は、共に働き、労苦も喜びも分かち合った信徒達と一緒に、外海のカトリック出津教会野道共同墓地に眠っています。

ド・ロ神父像

参考文献
『COLORS 長崎の教会群とキリスト教関連遺産[心にひびく長崎のいろ]』長崎県企画(長崎文献社)、『シリーズ 福祉に生きる 14岩永マキ』米田綾子著(大空社)





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