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遠藤周作年譜
遠藤周作年譜
西暦 | 年号 | 年齢 | 年譜 |
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1923年 | 大正12年 | 誕生 | 3月27日、東京市巣鴨(現東京都豊島区)で、父・常久、母・郁(郁子)の次男として生まれる。 |
1929年 | 昭和4年 | 6歳 | 大連市大広場小学校に入学。 成績はほとんど乙であったが、作文の才能はすばらしく、初めて作った詩や作文「どじょう」が大連新聞に掲載された(1932年)。 |
1933年 | 昭和8年 | 10歳 | 両親が離婚し、母に連れられて日本に帰国。神戸市六甲小学校に転校する。 |
1935年 | 昭和10年 | 12歳 | 兄・正介とともに、カトリック夙川(しゅくがわ)教会(西宮市)で受洗。 洗礼名ポール(パウロ)。 |
1943年 | 昭和18年 | 20歳 | 旧制灘中学校卒業後、3年間の浪人生活を経て、慶応義塾大学文学部予科に入学するが、医学部に合格したと思っていた父親が激怒、勘当され、カトリック哲学者 吉満義彦が舎監を務めるカトリック学生寮(信濃町)に入る。 |
1945年 | 昭和20年 | 22歳 | 昭和16年に合格した上智大学予科(翌年退学)ではドイツ語専攻だったが、佐藤朔の著書と出会い、フランス文学を志し、仏文科に進学。 また、前年肋膜炎を患ったため徴兵には召集されなかった。 |
1947年 | 昭和22年 | 24歳 | 初めて書いたエッセイ「神々と神と」が認められ、「四季」(角川書店発行)に掲載される。 |
1950年 | 昭和25年 | 27歳 | 終戦後、最初の留学生としてフランス・リヨン大学大学院に入学。 |
1953年 | 昭和28年 | 30歳 | 体調を崩し、帰国。帰国後、処女エッセイ集『フランスの大学生』を早川書房より出版。 |
1955年 | 昭和30年 | 32歳 | 7月、「白い人」により芥川賞を受賞。9月、慶応義塾大学の後輩にあたる順子さんと結婚。 |
1957年 | 昭和32年 | 34歳 | 「海と毒薬」を「文学界」に発表。新潮社文学賞、毎日出版文化賞を受賞するなど高い評価を受け、文壇的地位を確立する。 |
1959年 | 昭和34年 | 36歳 | 最初のキリシタン小説「最後の殉教者」を発表。 |
1961年 | 昭和36年 | 38歳 | 前年に再発した結核のため、三度の肺の手術を受ける。 |
1963年 | 昭和38年 | 40歳 | 闘病生活から再起し、長編「わたしが・棄てた・女」を「主婦の友」に連載。 「午後のおしゃべり」を「芸術生活」に連載し、このエッセイを「狐狸庵閑話(こりあんかんわ)」と命名する。 |
1966年 | 昭和41年 | 43歳 | 書下ろし長編『沈黙』を刊行。同作品で谷崎潤一郎賞受賞。 |
1970年 | 昭和45年 | 47歳 | ローマ法王庁よりシルベストリ勲章(騎士勲章)を受ける。 |
1973年 | 昭和48年 | 50歳 | 『死海のほとり』、『イエスの生涯』を新潮社より刊行。 |
1975年 | 昭和50年 | 52歳 | 『遠藤周作文学全集』(全11巻)が新潮社より刊行される。 |
1977年 | 昭和52年 | 54歳 | 芥川賞の選考委員となる。 |
1978年 | 昭和53年 | 55歳 | 『キリストの誕生』を新潮社より刊行。 |
1979年 | 昭和54年 | 56歳 | 前年刊行した『キリストの誕生』で読売文学賞評論・伝記賞受賞。日本芸術院賞受賞。 |
1980年 | 昭和55年 | 57歳 | 『侍』を新潮社より刊行。同作品で野間文芸賞受賞。 |
1985年 | 昭和60年 | 62歳 | 日本ペンクラブ第十代会長に就任(~平成元年まで)。 この年、サンタクララ大学(アメリカ・カリフォルニア州)から名誉博士号を受ける。 |
1987年 | 昭和62年 | 64歳 | 『沈黙』の舞台、長崎県西彼杵郡外海町(現長崎市西出津町)に「沈黙の碑」完成。 |
1991年 | 平成3年 | 68歳 | ジョン・キャロル大学(アメリカ・オハイオ州)並びに輔仁大学(台湾)から名誉博士号を受ける。 |
1993年 | 平成5年 | 70歳 | 腎臓病のため入院。入退院を繰り返す闘病生活が続く。遠藤文学の集大成といえる『深い河』を講談社から刊行。 |
1994年 | 平成6年 | 71歳 | 最後の歴史小説「女」を朝日新聞に連載。この年、『深い河』で毎日芸術賞受賞。 |
1995年 | 平成7年 | 72歳 | 文化勲章受賞。 |
1996年 | 平成8年 | 73歳 | 9月29日死去。 |