文・宮川密義


【県制作】

1.「長崎県民歌・南の風」
(昭和36年=1961、県民歌作詩委員会・作詞、山口健作・作曲、若山彰、コロムビア・ローズ・歌)


昭和36年に県が「長崎県民歌・南の風」と「長崎県民音頭」を制定しました。
当時の佐藤勝也(さとう・かつや)知事は昭和35年に臨海工業団地造成や有料道路の建設などを柱にした「県勢振興5ヵ年計画構想」を発表。5ヵ年は翌36年4月にスタートしますが、同時に精神的な盛り上げも図ろうと、県民歌の制定となりました。
2曲とも昭和33年に歌詞を公募していましたが、県民歌は該当する作品がなく、選考委員会を作詞委員会に切り替えて作詞しました。作曲したのは長崎大学教授の山口健作(やまぐち・けんさく)さん。
県はひと足先に出来ていた「長崎県民音頭」(次項で詳述)とともに、当時人気の若山彰(わかやま・あきら)とコロムビア・ローズの歌でレコードを作り、市町村役場などに配布しました。
県民歌は県の行事を中心に活用されましたが、今では毎年5月の県障害者スポーツ大会の県旗高揚の時に流れるだけで、歌を覚えている人も少なくなっています。そこで県では40年を過ぎた今年平成17年7月、県のホームページに歌詞と楽譜を掲載、試聴もできるようにしました。


「長崎県民歌・南の風」の
レコードに添付された
歌詞カード(部分)



2.「長崎県民音頭」
(昭和36年=1961、脇 太一・作詞、木野普見雄・作曲、若山彰、コロムビア・ローズ・歌)


「長崎県民音頭」は、各地の校歌や「ラジオ体操の歌」の作詞で知られる香川県坂出市の脇太一(わき・たいち)さんの作品が採用され、選考委員の一人、長崎の木野普見雄さんが作曲して県民歌より先に完成、昭和34年4月長崎市出島の三菱会館で開かれた第2回県民謡民芸顕彰大会で披露されました。
会場は佐藤勝也知事ら県の幹部、県が招待した県内外の知名士のほか、市民など長崎くんち見物客も詰めかけて満員となり、「千綿人形浄瑠璃」など郷土民芸の力演の後、「長崎県民音頭」を長崎月曜会の合唱で発表しました。
レコードは「長崎県民歌」とともに若山彰、コロムビア・ローズの歌で36年に作られ、「県民音頭」には踊りの振りも付けて婦人会などで普及を図りました。
ところで、これらの歌が予想以上に人気を集めたことから、佐藤勝也知事が“くちびるに歌を”と歌声運動を提唱。その意を受けて県は発足したばかりの県文化団体協議会などと協力して、歌声運動を繰り広げることにしました。
そこで、佐藤知事自ら作詞した「この道を歩もう」と「悲しみを越えて」を中央の作曲家、明本京静(あけもと・きょうせい)さんに作曲してもらい、“歌のおばさん”で知られた安西愛子(あんざい・あいこ)の歌でレコードも作ることにしましたが、同年9月の県議会で“知事の売名行為”との批判が高まり、県費70万円は削除され、実現しませんでした。


「長崎県民音頭」に添えられた振り付け

「長崎県民音頭」のSP盤レーベル


3.「長崎国体の歌」
(昭和42年=1967、長崎国体準備委員会・作詞・作曲、安西愛子、藤山一郎・歌)


昭和44年(1969)に長崎県内で開かれた第24回国体(長崎国体)を成功させるため、県は4年前の昭和40年10月から「長崎国体の歌」「長崎国体音頭」の歌詞を公募しました。「長崎国体の歌」は県内外から集まった465点から長崎市坂本町の中学校教諭、田島すえ子さんの作品を採用しました。
曲は中央の作曲家に依頼して「長崎国体準備委員会・作詞作曲」とし、オーケストラと東京混声合唱団をバックに、安西愛子と「長崎の鐘」の藤山一郎に吹き込んでもらい、42年に「長崎国体音頭」と一緒に収録したソノシートを1万枚、43年にはレコードも1万枚作成して各種団体に配布しました。
42年3月には長崎、諫早、佐世保の3会場で「長崎国体の歌」発表会を順次開催、安西愛子による歌唱指導も行いました。

ソノシートの表紙
長崎国体本番の44年10月26日の開会式(諫早の県立運動公園陸上競技場)では式典前の15分間、諫早出身で作陽音楽大学(岡山)の堤温(つつみ・すなお)教授による歌唱指導が行われた後、式典のフィナーレに830人編成の吹奏楽隊の演奏をバックに、830人の合唱隊と満員のスタンド一体となって高らかに歌われました。


4.「長崎国体音頭」
(昭和42年=1967、長崎国体実行委員会・作詞・作曲、鈴木正夫、百合ひとみ・歌)


「長崎国体音頭」に297点の応募作がありましたが、該当する作品がなかったため、長崎国体実行委員会の名で作詞・作曲し、東京の民謡歌手、鈴木正夫(すずき・まさお)、百合(ゆり)ひとみの歌で、「長崎国体の歌」と共にソノシートとレコードに収録。振り付けは日本舞踊、バレエ、芸能界、民踊の関係者による振付委員会で検討して作られました。
折から県が進めていた“長崎国体を成功させよう”運動に、長崎国体県民運動推進協議会と長崎新聞社が呼応して、「長崎国体音頭大会」を県民運動推進キャラバン事業に取り込み、43年7月から8月にかけて県内8地区で展開、県民総参加のムードづくりに役立てました。

昭和43年7月10日付
「長崎新聞」に掲載された
「長崎国体音頭大会」の広告


【長崎市制作】
長崎市制作の歌は昭和8年(1933)に制定した「長崎市歌」(バックナンバー「長崎観光博覧会のころ」参照)が最初ですが、戦後、復興に向けて市民の意識高揚を目的にした歌、市制70周年を記念した歌などが作られています。

1.「新長崎音頭」
(昭和24年=1949、西条八十・作詞、竹岡信幸・作曲、赤坂小梅、伊藤久男・歌)


昭和24年の原爆の日に「長崎国際文化都市建設法」が公布され、再建への新しい道が開かれました。市ではこれを記念して、全国から歌詞を公募した「国際文化都市長崎音頭」のほか、レコード会社とタイアップして「新長崎音頭」と「長崎ロマンス」を作りました。
「国際文化都市長崎音頭」は長崎市稲田町、一ノ瀬正二郎さんの“アトムネー アトム長崎 茜の空に 鐘が鳴る鳴る 夜明けだ朝だ…”に始まる歌詞を採用、長崎の木野普見雄さんが曲を付け「新長崎文化音頭」と改題、発表しましたが、レコードは作られませんでした。
「新長崎音頭」は中央の著名作詞・作曲家の作品で、当時人気を集めていた赤坂小梅(あかさか・こうめ)と伊藤久男(いとう・ひさお)が吹き込みました。8月11日には出島の三菱会館で「国際文化祭」第5日のメーン行事として発表会も開きました。
ステージでは和服姿の小梅、半袖シャツに白ズボンの伊藤がデュエット。これに合わせて長崎花柳会の皆さんが浴衣姿で踊りを披露しました。



「新長崎音頭」発表会の
賑やかなステージ


2.「長崎ロマンス」
(昭和24年=1949、藤浦 洸・詞、古賀政男・曲、奈良光枝・歌)


平戸出身の詩人、藤浦洸(ふじうら・こう)、福岡県柳川出身の作曲家、古賀政男(こが・まさお)という大物作家コンビの作品を、人気絶頂の女優歌手、奈良光枝(なら・みつえ)が歌いました。
発表会にも奈良光枝が来崎して歌う予定でしたが、急病で倒れたため、代役の織井茂子(おりい・しげこ)が披露しました。
織井はデビューして間もないころでしたが、真っ赤なドレスでこぼれるような愛敬を振りまき、声援を浴び、奈良光枝から届いたお詫びの電報も代読していました。
なお、奈良光枝の「長崎ロマンス」は中央でも高い評価を受け、岡本敦郎(おかもと・あつお)が長崎をイメージして歌った「月の居留地」とカップリングで、1年後の25年9月に全国盤でもレコードが出てヒットしました。


奈良光枝


「長崎ロマンス」のレーベル


3.「長崎市民歌」
(昭和34年=1959、長崎市選定・作詞・作曲、藤山一郎、安西愛子・歌)


昭和34年には市制70周年と市庁舎落成を記念して「長崎市民歌」と「モッテコイ節」が制定されました。
歌詞と曲は公募して、「長崎市民歌」は長崎市琴平町の三菱長崎造船所研究部勤務、青井果(あおい・きのみ)さんの詞と東京の鈴木重(すずき・しげ)さんの曲が採用されましたが、作詞、作曲とも“長崎市選定”となり、曲の大部分を補作した古関裕而(こせき・ゆうじ)さんが編曲も受け持ち、コロムビアの藤山一郎と安西愛子が吹き込みました。
レコードは蓄音機で聴くSP盤のほか、新たに出現したEP盤でも作られました。
作詞の「青井果」は土井一郎さん(当時41歳)のペンネームです。土井さんは長崎の歌人、島内八郎さんに師事したこともあり、明るく健康的な詞を得意としていました。昭和21年には毎日新聞社公募の「新日本の歌」に入選、全造船労組の労働歌、37年にはNHK公募の東京オリンピック愛唱歌「海をこえて友よきたれ」なども作詞しています。


SP盤のレーベル

EP盤と歌詞カード(部分)


4.「モッテコイ節」
(昭和34年=1959、長崎市選定・作詞・作曲、浜 子・歌)


歌詞は「長崎市民歌」とともに公募して、長崎市新町の水木節子(みずき・せつこ)さんが入選しました。曲は市内丸山町の長唄の師匠、松永鉄四郎(まつなが・てつしろう)さんの作品でしたが、「長崎市民歌」と同様、表向きは詞、曲とも長崎市選定となりました。
長崎芸能会の浜子さんの艶っぽい声に、くんちと精霊流しをイメージした「モッテコイ スットン チャーパ」の囃子も付いた楽しい歌で、長崎の日本舞踊家、花柳輔繁(はなやぎ・すけしげ)さんの振りも付き、よく踊られました。

SP盤のレーベル

SP盤、EP盤とも付けられた
「モッテコイ節」の振り付け


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