文・宮川密義

「長崎ぶらぶら節」については「史話『長崎ぶらぶら節』」(バックナンバー1参照)で、レコード吹き込みが凸助と愛八によって行われたことを中心に述べましたが、今回は改めて「長崎ぶらぶら節」の歌詞と意味について。

★ルーツ
源流は1700年代(宝永、正徳)に流行した「やだちゅう節」(当時の表記は「やだちうぶし」)といわれています。


「やだちゅう」は“いやだという”の意味です。
「やだちゅう節」から「ぶらぶら節」に変身した時期は嘉永年間ともいわれますが、明確ではありません。
ただ、昭和2年(1927)刊の「長崎花街篇」(本川桂川著)には「ぶらぶら節」の歌詞を掲げながら、題名は「やだちゅう節」としており、「ぶらぶら節」または「長崎ぶらぶら節」となるのは、それ以後ではないかとも考えられます。


★古い歌詞は30節を超える
長崎町検番の芸妓、凸助(昭和5年)と東検番(丸山)の芸妓、愛八(昭和6年)がレコードで歌った歌詞を筆頭に、その後に加えられていった古い歌詞は、私の手元には31節あります。
以下、全歌詞を、よく知られたものから順に(類似したものは一緒に)、その意味を添えながら紹介していきます。
(ナンバーは便宜上のもので、年代とは関係ありません)


「ぶらぶら節」の基本形ともいうべき歌詞です。
貿易でうるおった長崎の台所と、遊びに興じる市民の暮らしぶりが描かれています。
「はた」は凧(たこ)のこと。「シャギリ」は長崎の秋祭り「くんち」のとき、奏される笛と太鼓の音。




長崎の秋祭り「長崎くんち」
諏訪神社の“お上(のぼ)り”



「花月」は由緒ある丸山の妓楼「引田屋(ひけたや)」の離れの茶屋でしたが、現在は料亭で県指定史跡でもあります。
「梅園」は花月の裏にある身代わり天満宮。
「中の茶屋」はその裏手にある有名な茶屋です。




長崎・丸山にある
史跡料亭「花月」の入り口



梅園天満宮の太鼓の音に起こされ、「また来てくだしゃんせ」の女郎の甘い言葉を背にしながらの朝帰りでしょうか。




「花月」の裏手にある
梅園身代わり天満宮



金比羅山と風頭山はハタ揚げのメッカでした。
ハタを切られた腹いせに飲んだ瓢箪(ひょうたん)酒に酔って帰る亭主。そして腰に下げた瓢箪がぶらぶら揺れて、足元も危なっかしいというコミカルな情景です。




「ハタ」と呼ぶ長崎の凧(たこ)


嘉永7年(1854)は閏年で、1年がひと月多い13カ月となり、1年交代で長崎港の警備に当たっていた“肥前さん”の佐賀鍋島藩と福岡黒田藩の交代の年でもありました。
長崎港口の「四郎ヶ島」には台場が築かれ、「城ヶ島」と呼ばれるほどの城塞の島でした。
嘉永6年、開港を求めて長崎にやってきたロシア使節プチャーチンが幕府と交渉する間、長崎港をのんびり見物する俄羅斯(おろしゃ=ロシア)水兵の様子を歌っています。
嘉永7年(安政元年)1月8日、ロシア艦隊はひとまず長崎を去り、市民はひと安心。正月から縁起がよいと「屠蘇機嫌…」というわけでしょう。
この8〜10が「ぶらぶら節」最初の歌詞ではないかと思われます。





古版画に描かれた
長崎入港のロシア艦


「大筒、小筒」は大砲と鉄砲。「すっぽんぽん」は長崎に入港する外国船が鳴らす礼砲の音です。



かつては台場が築かれていた四郎ヶ島


外国船の来航が少ない時期、長崎奉行所の役人は丸腰、着流しでリラックス。のんびりと盆祭りなどを楽しんでいました。
そこへ外国船の礼砲がポンと響くと、慌てて袴を履いて走り出す風景。これを市民は“ぽん袴”と呼んでいました。





「旗喧嘩」は江戸時代の旧正月に長崎で見られた子供の遊び「陸(おか)ペーロン」のことです。
青竹でペーロン舟を真似て作り、幟旗(のほりばた)を押し立てて、他の組と競走して勝った方が相手の旗を取るゲームですが、時としてこれに大人が加わって大騒動になり、仲裁役の世話町が入って、収まるのに二三日かかることもあったとか。






旧正月の子供たちの遊びだった
「陸(おか)ペーロン」風景
(長崎名勝図絵)


「花屋」は江戸時代、紺屋町にあったアクセサリー店で、大きな「上野」質屋の向こう角にあり、そこの「弥生花」という髪飾りが女性たちに人気がありました。それを「高い」とか「安い」とか言う人がいたというわけです。
そして、17の歌詞は夕方、「上野」質屋のお手伝いさんが酒樽を買ってきた風景でしょうか。

(つづく)


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