● 龍馬の片腕、沢村惣之丞の悲劇

長崎龍馬の道--番外編 本蓮寺

長崎奉行、驚きの脱出vol.33最後の長崎奉行、まさかの脱出と西役所占拠により、長崎奉行所西役所を占拠した海援隊。翌15日未明、悲劇は起こりました。外国人との応接役を務めるため、銃を携行し警備にあたっていた海援隊士のひとり、沢村惣之丞(変名/関雄之助vol.28幕末の武士達の名前のはなし)が、玄関先で暴れる者に銃を向け射殺。沢村は敵と見なしての行為でしたが、射殺した相手は、薩摩藩長崎蔵屋敷の門番で足軽の川畑半助だったのです。西役所占拠の急報を聞き駆けつけた川畑は、実は酒に酔っていて刀を抜き暴れていたともいわれています。龍馬亡き後、海援隊を率いていた土佐藩・佐々木高行は、沢村の処分について決断を迫られます。結局、薩摩・土佐両藩の懸隔(けんかく)を危惧し、沢村に自刃させることを決意。また、沢村自身が薩摩・土佐両藩のあつれきを懸念し、切腹して謝罪することを佐々木に願い出たともいわれています。同日、海援隊士・吉井源馬、野村辰太郎の立ち会い、介しゃくにより、沢村は新町の海援隊士本部で切腹し果てます。英語と数学に通じた秀才であった沢村は、海援隊では陸奥と共に測量官、また、外国人の応接係として活躍。文久2年(1862)、共に脱藩して以来、ほぼ行動を共にした、龍馬の片腕的人物でもありました。龍馬への忠誠心も強く、龍馬暗殺の知らせを聞いた沢村は大坂から上京。暗殺の首謀者と目された紀州藩士・三浦休太郎を陸奥宗光らと共に、京都・天満屋にて襲撃しています。沢村の辞世の句は次のようなものでした。「生きて世に残るとしても生て世の有らむ限りの齢なるらめ」。享年26歳。有能な武士の早過ぎる死は海援隊にとって大きな痛手。龍馬が存命ならば、また違った結果になっていたのかもしれません。



この沢村の墓が、近年、「現代龍馬学会員」織田毅氏によって発見されました。場所は筑後町の本蓮寺。江戸初期の天文地理学者・西川如見の子孫の墓域でした。織田氏の調べによると、戦前は「関雄之助延世墓」と刻まれた30cm程の小さな墓碑があったそうですが、現在は、同じく西川氏の改葬された墓所内「村木氏外土佐住民諸氏之墓」と刻された合同墓碑となっているそうです。墓碑の左側面には、土佐藩ゆかりの人物と共に「関雄之助延世」の名が刻まれ、龍馬や幕末ファンが度々訪れる場所となっています(※延世は沢村の諱vol.28幕末の武士達の名前のはなし)。
 




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