● 最後の長崎奉行、まさかの脱出と西役所占拠

長崎龍馬の道--24 長崎奉行所西役所跡



慶応3年11月15日、龍馬の死後、日本の情勢は急速に変化していきますvol.30仲間を残して・・・龍馬、無念の死。同年12月9日、王政復古の大号令(明治天皇による天皇親政宣言)、年を越して慶応4年1月3日、鳥羽伏見の戦いが勃発。幕府軍が敗れたとの一報は、10日頃長崎に届きました。龍馬亡き後、海援隊を率いていた土佐藩・佐々木高行は、薩摩藩や大村藩と連絡を取り合いながら、長崎奉行・河津伊豆守祐邦と交渉を行ない奉行所の動きをうかがっていましたが、14日、まさかの出来事が起こります。鳥羽伏見の戦いで幕府軍の敗退を知った長崎奉行・河津伊豆守祐邦は、14日の夜、イギリス船に乗り込み江戸に脱出してしまったのです。その計画的行動は実に手の込んだものでした。その日、奉行所の引っ越しが行なわれるという噂が町中を飛び交い、西役所(現長崎県庁)から立山役所(現長崎歴史文化博物館)までの一直線の道には、大八車や用心籠、牛車の列がひっきりなしに行き交いました。引っ越しの理由は、なにぶん物騒な世情ゆえ海岸に近い西役所は危険、というものでした。引っ越し先の立山役所では、夜に引っ越し祝いがあるといい、出入りの仕出し屋に260人分もの仕出しの注文が入りました。しかし、夜遅くにその注文はすべてキャンセルとなるのです。そのことは夜更けに町にもれ、「何かが起きる!」と町中がざわめいたといいます。引っ越しは見せかけで、河津が脱走するとにらんだ佐々木は、奉行所(西役所)が空になったことを知り、急遽、玉川亭vol.17社中に馴染みの長崎の料亭に海援隊を集め奉行所に向かいましたが、すでに河津は退去した後。奉行所の中には地役人の岡田吉太夫(後に長崎県小参事となり県政に尽力)がおり、佐々木らの行動に理解を示したため無事奉行所占拠に成功しました。佐々木は、彼同様に奉行所に駆けつけた薩摩藩・松方助左衛門(後の元老公爵松方正義)と共に地役人を集めて意見を聞きまとめ、早急に長崎に屋敷を置く諸藩の18藩の代表を集め、今後の長崎表政治の策を決定しました。さて、河津伊豆守の脱出はというと、引っ越し騒ぎの中、洋服姿で靴を履き、ポケットにはピストルをしのばせ西役所から小舟で外国船へと乗り込んだといいます。彼は奉行所の金、つまり公金を持ち出し逃げていました。これに気づいた佐々木と松方は、外国船を世話した波止場役人・白木を、まだ港に停泊している外国船に差し向け「公金を差し出さなければ海援隊士が砲撃しますよ」と、金を取り戻させます。その金、金箱四箱一万七千余両。白木の願い出で、内三千五百両は河津に餞別として贈られ、彼はそれを維新後東京神田に起こした馬車会社の資本金にしたといわれています。




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