● 仲間を残して…龍馬、無念の死

長崎龍馬の道--35〜45 長崎港


龍馬の訃報を知らせた「空蝉」が入港した長崎港

慶応3年9月18日、芸州藩(現広島県)の震天丸で長崎港を後にした龍馬は、下関、高知を経て徳川慶喜が居住していた大坂へと向かいました。目前には遂に実現へと迫った大政奉還。この、武力を用いずに政権を朝廷に返上させるという未曾有の離れ業である大政奉還は、龍馬が提唱し、後藤象二郎が山内容堂公に進言。結果、土佐藩の藩論として行動に移した大政奉還論は二人の懸命な働きで上手く事が運び、いよいよ慶応3(1867)年10月14日、徳川慶喜は260年以上もの長きに渡り有してきた政権を朝廷に返上することになりましたvol.5歴史的会談が行われた「清風亭」。これがまさに新しい日本の夜明け。龍馬が思い描く「日本を守るための新しい仕組みをつくる」という志の初めの一歩でした。しかし、その吉報に歓喜したのも束の間、約1ヶ月後、京都・近江屋で龍馬は何者かの手によって命を奪われてしまいます。慶応3(1867)年、11月15日。くしくも龍馬誕生の日に起きた悲劇でした。この日龍馬は、同郷の盟友 中岡慎太郎とともに京都の醤油商・近江屋の母屋2階にて歓談中でした。午後9時過ぎ、近江屋を訪れてきた何者かが龍馬に面会を要求。取り次ぎに出た下僕の藤吉に龍馬の在室を確認した彼らは、藤吉を斬殺したあと、龍馬のいる2階へ。いきなり座敷に乱入した彼らは、龍馬、中岡に斬りかかりました。龍馬は額を斬られ、ほぼ即死の状態だったといいます。一方、中岡は数十箇所に傷を受け、事件直後に駆けつけた土佐藩同志に襲撃の状況を語ると2日後に絶命します。現在、この2人を暗殺した犯人は幕府見回り組という説が有力視されており、その黒幕は薩摩藩とも会津藩ともいわれ、いまだ謎のまま。龍馬暗殺は幕末最大のミステリーであり、その無念の最期が、龍馬が短期間で成し遂げた偉業を一層際立たせ、現代に語り継がれています。龍馬の死から約二週間後の11月27日。弥太郎も乗船していた長崎港に入港した土佐藩船「空蝉」が、仲間が残る長崎の地に龍馬の訃報をもたらしました。この時の隊長を失った海援隊士の悲しみは計り知れない深いものだったに違いありませんvol.9もうひとつの龍馬ゆかりの寺院




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