● もうひとつの龍馬ゆかりの寺院

長崎龍馬の道--15  晧台寺

龍馬ゆかりの寺院といえば、元治元年(1864)、勝海舟に伴い初めて長崎入りした際の滞在先、福済寺。かつて海舟が止宿していた本蓮寺から目と鼻の先の寺院です。崇福寺、興福寺とともに「長崎三福寺」と称されるこの黄檗宗の唐寺は、原爆で大破するまでは見事な伽藍(がらん)を誇り、大雄宝殿(本堂)などの国宝を有する寺院でした。正面に見下ろすのは、美しい長崎港。帆船が浮かび、活気に満ちた港を、龍馬もこの地から胸躍る気持ちで眺めていたに違いありません。そして、もうひとつの龍馬ゆかりの寺院が、市街地をはさんだ寺町通りにあります。「社中」の本拠地 亀山を擁する風頭山のふもとに位置する曹洞宗の寺院 晧台寺。ここには、vol.8龍馬がお世話になった小曽根家の人々で紹介した小曽根家の墓域があります。その片隅に、龍馬とは同郷で知己の間柄であり、社中の同志でもあった近藤長次郎が眠っているのです。慶応2年1月、彼は小曽根邸の一室で自決しました(享年29歳)。一説には、英国留学を画策した長次郎が長州藩からの報酬を私物化し、グラバーの船に乗り出航を待っていましたが、天候不良で出航が延期となり下船したところを社中の仲間に見つかり隊規違反を責められたためだといいます。後に龍馬の妻 お龍は、回顧録『千里駒後日譚(せんりのこまごじつのはなし)』の中で長次郎の訃報(ふほう)を聞いた龍馬が「己が居ったら殺しはせぬのぢゃった」とその死を悼んだと証言しています。墓石には小曽根邸の離れの屋敷名をとって「梅花書屋氏墓」と刻まれ、その筆跡は龍馬のものといわれています。龍馬は幾度となく、この皓台寺の山門をくぐり抜け、以前は晧台寺後山にひっそりたたずんでいた長次郎の墓に手を合わせていたのではないでしょうか。 そして---慶応3年11月27日、龍馬死去の知らせが土佐藩船「空蝉」によって長崎にもたらされました。知らせを聞いた海援隊士 渡辺剛八は、土佐藩士 佐々木三四郎(高行)に「隊長(龍馬)の敵討ちをする」と息巻きました。それから約1ヶ月後の12月15日の夜、龍馬と中岡慎太郎の追悼祭が、ここ晧台寺で執り行われました。長崎の劇作家 永見徳太郎著『長崎時代の坂本龍馬』によれば、この日は大風雨。多くの長崎人も参列し、人々は皆嗚咽(おえつ)して彼の死を悼んだそうです。







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