● 幕末の武士達の名前のはなし

長崎龍馬の道--35 長崎奉行所立山役所跡・運上所跡


龍馬が「才谷梅太郎」の名で取調べを受けた「長崎奉行立山役所跡」と「運上 所跡」

慶応3年4月、龍馬は土佐藩の外部組織である海援隊の隊長に任命されています。ただし、記録に残る海援隊長の名は「才谷梅太郎」になっています。そういえば、イカルス号事件の際、長崎奉行所、運上所(当時の税関)における度重なる取り調べも、龍馬は「才谷梅太郎」の名で受けています。vol.23龍馬を悩ませたイカルス号事件の真相。犯人は誰?これは龍馬の変名のひとつで、郷士坂本家の本家である才谷屋の屋号からとったとも、坂本家の発祥の地である「才谷村」に由来するとも言われている名前です。この時代、武士と呼ばれる人達は、2〜3つの名前を持っていたといいます。一つ目は、子どもの頃から呼ばれている幼名、通称で、龍馬はこれに当たります。二つ目は正式な手紙などの署名に使用する戸籍に登録する実名、諱(いみな)で、龍馬の場合、「直柔(なおなり)」といいました。父と兄同様、坂本家6代目以降の男子には「直」の字が付けられていました。武士は元服の時にこの諱を付けてもらいますが、龍馬の元服した年は不明です。ただ、残された龍馬の手紙の中に記された諱から読み取ると、最初は「直陰(なおかげ)」だったようで、慶応元年12月頃、31才頃までは、この名を使っていたようです。諱を付けることは一部の武家、公家の慣習で、女子に付く事もありましたが、乙女やお龍にはありませんでした。絵や詩を書いた時などに使用する名、「号」は、龍馬は「自然堂」と名乗っていました。この「自然堂」とは、晩年、下関の伊藤助太夫からその邸宅の一室を借り受け、愛妻お龍と暮らしていたその部屋の名前でした。そして、四つ目が、幕末の武士らが多く持ち合わせていた「変名」と呼ばれる隠れ蓑的な名前でした。西郷隆盛は菊池源吾、大島三右衛門ほか、木戸孝允は新堀松輔、中岡慎太郎は石川清之助(誠之助)、高杉晋作は、谷梅之助ほか大谷潜蔵、宍戸刑馬、谷潜蔵、備後屋助一郎、西浦松助、祝部太郎と多数の変名を持っていました。 海援隊士の面々も変名を持っています。石田英吉→伊吹周吉(終吉)ほか。沢村惣之丞→関雄之助、前河内愛之助。近藤長次郎→上杉宗次郎ほか。新宮馬之助→寺内新左衛門。菅野覚兵衛→千屋寅之助。高松太郎→多賀松太郎。白峰駿馬→鵜殿豊之助ほか。渡辺剛八→柴田八兵衛、大山壮太郎。陸奥陽之助→中村小次郎、源次郎ほか。池内蔵太→細川左馬之助ほか。この時代の日本では、相手の「名」を呼ぶのは無礼とされ、日常は通称を用いていました。しかも音による呼び名なので、文字にすると表記がバラバラだったりします。友人が「名」の字を知らなくても仕方のないことだったようです。




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