● 永見徳太郎が記した芸者「お元」

長崎龍馬の道--番外  茂木




長崎で龍馬の馴染みだったと伝わる芸者・お元(おもと)。後藤象二郎と龍馬が初対面を果たした清風亭会談vol.5歴史的会談が行われた「清風亭」においても、その場にお元が同席していたということが『維新土佐勤王史』に記されています。張りつめた緊張の中の会談になることは予測されていましたから、龍馬の馴染みの芸者と知った後藤が思いついた、龍馬への粋な計らいだったのかもしれません。さて、このお元のことが詳しく記されているのが、昭和4年に「土佐史談」(第29号)に発表された『長崎時代の阪(ママ)本龍馬』。著者は、長崎出身の劇作家 永見徳太郎(1891〜1951)です。彼は貿易商、諸藩への大名貸し、大地主として巨万の富を築いた永見家の6代目で、※1「銅座の殿様」と呼ばれた人物。年少の頃から「永見夏汀」の雅号(がごう)で写真や絵画に親しみ、数々の作品を世に出した文化人で、倉庫業を営むかたわら小説を執筆。竹久夢二や芥川龍之介、菊池寛などをはじめとした数多くの大正時代の文人墨客と交流を持ち、長崎の紹介につとめました。『長崎時代の阪(ママ)本龍馬』が執筆される前年の昭和3年には、高知・桂浜に龍馬像が建立されるなど、坂本龍馬という人物に対する世間の関心が高まった頃だと推測されます。徳太郎は、当時まだ存命だった小曽根乾堂の娘 きくなどに取材を行なった上で執筆をすすめ、関係者でしか知り得ない情報を盛り込み、小説風に書き上げましたvol.8龍馬がお世話になった小曽根家の人々。それによると、「お元は、芸妓のよく出る漁師村茂木の産、男好のする美人であった」とあります。海援隊士であった関義臣の『海援隊回顧』や、土佐商会の池道之助の日記にも、芸者「お元」の名が登場しますが、『長崎市史風俗編』によれば、明治4年(1871)に長崎の芸者が鑑札を受けた際の名簿には、「桶屋町 もと」「西築町 もと」と、二人の「もと」の名が記されているとか。彼女を限定し、その人生を物語る発見は今のところありませんが、龍馬が懇意にしていた女性が、長崎に存在していたことは確かなようです。

※1 銅座/かつて銅座銭(鉄銭寛永通宝)を鋳造していた銅座があったことに由来する地名。




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