● 長崎に残された龍馬の筆跡

長崎龍馬の道--26 史跡料亭 花月

慶応3年(1863)7月6日に起こった英国船イカルス号の水夫二人が惨殺されたイカルス号事件(慶応長崎事件)の一報を京都で受けた龍馬は、土佐藩大監察である佐々木高行(通称 三四郎)と共に、土佐藩船『夕顔丸』で長崎入りを果たしました。8月15日のことです。龍馬にとっては実に約2ヶ月振りのこと(いろは丸事件以来)。そして、これが最後の長崎滞在となりました。そして龍馬は、到着後すぐにイカルス号事件の犯人探しを始めたといいます。海援隊本部は、もちろんその頃も小曽根邸vol.8龍馬がお世話になった小曽根家の人々に置かれていましたが、隊士の面々は皆それぞれ市中に下宿しており、才谷梅太郎こと龍馬は、恵比寿町の廣瀬屋丈助方に間借りしていたといいます。さて、長崎奉行が「お構いなし」と判決をくだし、約2ヶ月に及び苦しめられてきた事件に決着がついた9月10日、龍馬は、長崎奉行所宛の抗議文の草案をしたためました。 以下、口語文を掲載(『海援隊秘記』織田毅著より引用)。

丸山でこの度の英人殺傷事件で、上様(徳川将軍)の御書により、○○○(御名、土佐藩主の名が入る)へ遣わされました平山図書守・戸川伊豆守・設楽岩次郎が土佐に御来国になり、その節英国軍艦も渡来してお調べされ、なおこの地(長崎)でもしばしば御談判席に加わり、今日に至ってようやく嫌疑が晴れ一同安心しております。ところで、この件は、英国人等が道路雑説を聞き取り、疑いを持ったことからこのような状況に立ちうたったのですが、何の証跡もなかったわけです。今後の外国人横死の際も弊国(土佐国)に嫌疑がかかり、たびたび今回のようなお取り扱いになった場合には、弊藩(土佐藩)の頑固・固陋(ころう)の人心は、深く心痛することと思います。なにとぞ、この度の件についてこのような重大なお取り扱いになられたうえは、○○○(御名、土佐藩主)をはじめ国中人民(土佐人民)においても一同感服するような御沙汰を仰せ付けられたく存じあげます。右の趣、どうぞよろしくお願いします。(以下省略)

これは、夜を徹して書かれたようで、末文に、書き終えた頃には朝の六時近くになっていたと記されています。実際に提出されませんでしたが、ようするに、嫌疑をかけられたことが相当に不満だったことから、書かずには腹の虫が治まらなかったのでしょう。vol.17社中に馴染みの長崎の料亭においてご紹介した、花街丸山随一の妓楼「引田屋(ひけたや)」の後身、史跡料亭・花月。ここに、龍馬と長崎の結びつきを示す、この貴重な史料は残されています。





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