● 事件当時に描かれた?「いろは丸」の絵発見!?

長崎龍馬の道--番外 現存した!? 「いろは丸の絵」


(財団法人 鍋島報效会所蔵)

ところで、龍馬を語る上で、度々登場する「いろは丸事件」の「いろは丸」とはどういう船だったのでしょうか? この船は、もともと文久3年(1863)に薩摩藩が購入し、「安行(あんこう)丸」と名付けられた蒸気船でした。慶応元年(1865)にオランダ商人ボードウィン(長崎大学医学部の前身、長崎養生所の教頭も務めた在日医師 アントニウス・ボードウィンの弟)が買い取りましたが、翌年には薩摩藩が買い戻し「いろは丸」と改名。その後、薩摩藩は大型船と買い換えるために、五代才助(友厚)、ボードウィンを通じて伊予(現在の愛媛県)・大洲藩に売却。以降、大洲藩所有の船となっていました。そして、慶応3年(1867)1月下旬〜2月上旬に行われたと考えられている清風亭会談vol.5歴史的会談が行われた清風亭以降、龍馬は脱藩の罪を許され、土佐藩に付属する外郭機関として結成された「海援隊」の隊長に就任。海援隊としての初仕事である長崎から大坂までの物資運搬の業務遂行のため、彼らはこのいろは丸を大洲藩から借り受けました。この時の借用料は500両もの大金だったといいます。さて、同年4月19日の夜半、長崎港を出港したいろは丸。船長は海援隊士の小谷耕蔵でした。もちろん龍馬も乗船。その他海援隊士と乗客総勢34名と、綿や大豆、砂糖や織物などを載せての航海でした。最終目的地は大坂。しかし、4月23日午後11時頃、瀬戸内海の讃岐沖で紀州藩の帆船「明光丸」に2度に渡り衝突されます。乗客はすべて明光丸に乗り移りましたが、いろは丸は積荷と共に海底へ……。そこで紀州藩に賠償を迫るべく龍馬が編み出した戦法が、「船を沈めたその償いは金を取らずに国を取る---♪」と、紀州藩批判をCMソングにのせて流行らせ、民衆をあおることでした。このいろは丸vol.20龍馬と船3「海援隊の初航海、いろは丸の衝突事故」は今も水深27mの海底に沈んでいるといいます。
当然ながらその姿形を目にすることはできず……。ところが今年の夏、長崎において、いろは丸と推測される船の絵が発見されました。長崎歴史民俗資料館の企画展「長崎の海と船展」で借り出し展示中だった冊子「白帆注進外国船出入注進」(鍋島報效会微古館蔵)から館長の永松実氏が発見したのです。この冊子は、長崎の港の警備係だった佐賀藩が長崎に出入りする船を記録したもので、天保15年(1844)〜慶応4年(1868)に長崎港に出入りした船などについての記録が記されています。掲載されている船は 208以上。その船の中のひとつ、深堀亀ケ崎沖で描かれた船が「いろは丸」と推定されました。根拠は、前ページ に記載された文章に「四国船」とあり、「10月24日の九ツ比(正午)に長崎港を出帆」という期日も合致。慶応2年とは書かれていませんが、前後に「長州征伐(第二次)(慶応2年)」とあるということから同年であると推測されます。また、中央のマスト、赤地に白の蛇の目の紋が大洲藩主加藤家の家紋であることなどでした。これまで想像図でしかお目にかかれなかった「いろは丸」。勝海舟の著「海軍歴史」にも、いろは丸について、【船名/安行丸(後のいろは丸)、船種/蒸気・ 内車・鉄、長さ/30間、幅/3間】とあり、この絵の船と特徴が重なります。空前の龍馬ブームの中での発見は、まるで遊び心いっぱいの龍馬の仕業のようですね。




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