● 龍馬も目にした天主堂の建設現場

長崎龍馬の道--42  大浦天主堂


vol.7龍馬も通った難所、日見峠と矢上宿で紹介したように、龍馬が初めて長崎の地を踏んだのは、元治元年(1864)2月23日のことです。元治元年といえば、前年の文久3年(1863)12月より日本人棟梁 小山秀が大浦天主堂建造に着手し、建設工事の真っ最中の年でした。小山棟梁の下には、伊王島の大渡伊勢吉、浦上村の溝口市蔵、外海村の川原粂吉といった地元の大工がいましたが、この禁教下では、工人として参加することも相当な覚悟を必要する時代。初めての長崎で龍馬が方々を行き来したかはわかりませんが、もしかしたら彼もこの天主堂の建設現場を目撃したかもしれませんし、好奇心旺盛な龍馬のこと、異国の建物を建てている現場の日本人大工さんに声をかけたりしたかもしれませんね。約2ヶ月の長崎滞在を終え、一行は4月4日に長崎を出立。龍馬はその直後に運命の人 お龍と京都で出会い、程なく京都 大仏和尚の媒酌で結婚します。しかし、お龍を京都伏見の「寺田屋」に奉公させ、翌1865年の6〜7月頃、龍馬は単身「亀山社中」設立のために長崎入りします。大浦天主堂の献堂式は1865年2月19日。龍馬が再びこの地に足を踏み入れようとした際は海路でしたから、すでに完成していた大浦天主堂を船上から望めたことでしょう。正面中央に大尖塔、左右に小尖塔を持つ三廊式平面の本格的な木造教会堂はとても華やかで、黒地に白い格子のナマコ壁を区切る白い柱形、三段の蛇腹に入念に描かれた装飾文様、大小三つの尖塔には、金色の輝く十字架が施されていました。それはそれは世界に類をみない独特の姿と彩色で、まるでおとぎの国の教会堂のようだったといいます。さて、その後の龍馬の動向ですが、2年後の慶応3年に、オルト邸へ出向いていることが記録に残っていますvol.4龍馬も頼りにした貿易商人 ウィリアム・オルト。そのとき龍馬が歩いた道筋はわかりませんが、天主堂の前を通らずに辿り着くことは考えづらいのは事実。今も正午と夕方6時に時を知らせるフランス製の聖鐘は、創建以来鳴らし続けられているもの。龍馬もきっと、同じ鐘の音を耳にしていたに違いありません。




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