町を賑わした!長崎の芝居史

大歌舞伎から大衆演劇まで 
市民熱狂!芝居小屋続々誕生!

明治、大正、昭和と長崎市民を楽しませた、今はなき「芝居小屋」に思いを馳せて。
 

長崎最初の常設芝居小屋
大歌舞伎といえば「八幡座」

文政11年(1828)12月、長崎においてはじめて常設の芝居小屋が許可され、八幡町30番地に、長崎における最初の芝居小屋「八幡座」が誕生。以降、明治、大正、昭和にかけて、長崎市内には数々の芝居小屋が点在した。

◆八幡座(慶応元年〜昭和22年)
[八幡座→長崎歌舞伎座→(失火全焼のため廃座)]


異国情緒に育まれた独特の歴史から、長崎で起きた史実を元に歌舞伎の題目となったものも多い。例えば並木五瓶作『漢人韓文手管始(かんじんかんもんてくだのはじまり)』。長崎丸山の遊郭を舞台に、唐人との言葉の障害によって起こるトラブル、恋のもつれと成就、通事(通訳)殺しが繰り広げられる異国趣味に富んだ異色作だ。

昭和15年9月。市川猿之助率いる東京大歌舞伎一座の公演では『漢人韓文手管始』――長崎土産唐人話――が掛かっている。

戦後昭和22年(1947)まで芝居小屋の老舗であった「八幡座」に対し、新たに迎え入れられたのが、明治23年(1890)、新大工町に誕生した「舞鶴座」だった。
 

舞鶴座と帯谷宗七
東部の繁華街、新大工に「舞鶴座」あり

◆舞鶴座(明治23年〜昭和11年)
[舞鶴座→長崎劇場→中島会館→(廃座)]

「長崎はわが国文明輸入の門戸にして、海外人も常に来往する土地なるに、完全なる劇場の設備なきは、文化発達の上にも遺憾多しとの意見を抱き、市内有志に説く所あり――」
長崎県令在任中(明治17、18年頃)の石田英吉の提唱に動かされた本古川町の帯谷宗七(おびやそうしち)が、市内有志を集め、資本金3万円で「瓊浦劇場株式会社」を設立。当時の市内の名士37名が株主となった。社長、宗七は、7歳頃から能楽の稽古を始め、諏訪神社の能舞台にも度々出演していた人物。安政4年9月に起こった諏訪神社火災により全焼した諏訪社能舞台を再建させた発起人の一人としても知られる。

舞鶴座跡
西山川と中島川が合流するこの辺りに舞鶴座はあった

檜造り、収容人数2300名にも及ぶ関西一の大劇場には、開場以来、鴈治郎、歌右衛門、仁左衛門といった時の大歌舞伎が来演。文字通り長崎の代表的劇場となった。
※2013.3月 ナガジン!特集「長崎のハタ、七つの魅力」参照

明治元年頃に榎津町の有志が設立した賃貸寄席の後身として誕生したのは、「栄之喜座」。
 

「八幡座」「舞鶴座」には敵わない
大衆に人気を集めた芝居小屋の思い出

◆栄之喜座(明治36年〜昭和20年)
[栄之喜座→中座〈映画常設館〉→(廃座)]


寛永年間、歌舞伎が栄えた象徴といえる歌舞伎町、新歌舞伎町(現在の東古川町)に近い場所にあったが、「八幡座」「舞鶴座」にはさまれ、比較的寂しく、やがて映画全盛の波についえていった。

花山一太著『続 長崎ショートショート』(昭和55年発行)に、中座時代の周囲の風情を記した文章がある。

「……榎津通りは、観光通りと十字にクロスしているが、賑橋に近い方は、昔から京都から呉服の出張販売にくる人たちの常宿があった。一方セントラル劇場や長崎日活のある通りは、やはり昔も興行街であった。といっても、映画館は一軒だけ、今空地になっているあたりに、中座という大きい劇場があった。(中略)「はやくて安い」が売りものの牛丼屋が、最近長崎にもあらわれてきたが、中座時代には、今の九州相互銀行の所に、すでに「牛丼屋」があって、庶民の人気を呼んでいた。たゞし当時は「牛めし」と呼ばれていた。その牛めし屋の隣は、あざみ湯という銭湯があって、その先が中座になるのである。風呂に入って、牛めしを食って、中座へ映画見物というのが、その頃のワンセットであった。」(「街は変ってもジゲモン健在 榎津町」より一部抜粋)

この栄之喜座と似た運命を辿ったのが、飽の浦町に「亀岡座」として開場し、後に要町(現在の大波止周辺)に移転した「永久座」。

◆永久座(明治42年〜昭和20年)
[亀岡座→永久座→(廃座)]


しかし、「八幡座」「舞鶴座」「栄之喜座(えのきざ)」に押され、大歌舞伎が掛かることはあまりなかった。

再び、花山一太著『続 長崎ショートショート』に永久座にまつわる記述を発見。

「長崎宝塚劇場の前身である南座は、A級劇場であったが、A級でない芝居小屋に、永久座というのがあった。場所は千馬町(現在の出島町)。いま長崎市資料館の電車通りの向うに、中古車センターがあるが、永久座はそこにあった。一郎はこの永久座で、ドサ(地方回り)の芝居をいろいろと堪能した。ひさご会という黒田良助という人を座長とするお涙専門の新派劇や坂東多門の節劇一座である。節劇といのは、歌舞伎役者が義太夫のチョボ(地の文を語る)にあわせて、ジグサをするように、浪花節にあわせて役者が芝居をするのである。」(「永久でなかった永久座 千馬町」より一部抜粋)

やや沈滞した長崎の劇界に息吹を与えようと建設されたのが、本石灰町の南座、かつて同地に存在した映画館、長崎宝塚劇場の前身である。

◆南座(明治42年〜平成17年)
[満知多(みちた)座→三七三(みなみ)座→南座→長崎宝塚劇場→(廃座)]

南座は、東濱町の町田元吉が開いた勧商場(かんしょうば)、(※明治・大正時代、一つの建物の中に多くの店が入り、いろいろな商品を即売した今でいうデパート)の一角に設けられた寄席の満知多屋として誕生。

「長崎の正月は、南座の芝居から」と言われるほど、次々に千両役者を迎えての大歌舞伎興行を掛け、観客を魅了した。

また、大黒町に「宮古座」、大浦の上田町には「七楽座」があった。どちらも繁華街には遠く地の利を得なかったため大歌舞伎には恵まれない、大衆に迎えられた劇場だった。


満知多座跡
満知多座、南座は知らずとも、宝塚劇場と言えば御存知の方も…

◆(明治32年〜昭和20年)
[祇園座→大黒座→宮古座→東亜劇場→(原爆による焼失のため廃座)]

◆(明治20年〜昭和39年)
[娯楽座→七楽座→大浦劇場→(火災による焼失のため廃座)]

昭和12年頃の七楽座について記した記事を、昭和34年発行『長崎手帖 No.35』に見つけた。芝居小屋の賑やかな様子が目に浮かぶようだ。

「……筆者はまだ小学生であったが、ラヂオもまだ少なく娯楽機関に乏しい時代で、こゝの芝居(※シバヤ)を見に行くのは楽しみであった。演し物は、義理人情、勧善懲悪をテーマとした、ヤクザ物が多かったようである。前狂言、中狂言、切狂言に分かれ前狂言は軽い演し物で之には一座の花形役者は出ない事が多く、中狂言は喜劇風な現代物もよく上演されていた。(中略)七楽座には、場末の小屋には珍しく花道や廻り舞台もあり、当時では立派な方ではなかったろうか? 三十四号の写真説明にもあったように木戸口を入ると、螺旋状の石段を三◯段ばかり昇った処に下足番がいて、下足札と引換えに履物は皆預ける様になっていた。一階は枡席になっており、座布団代は別に払わなければならなかったので、座布団持参の観客も多かった。」(「七楽座の思い出」桜井稲雄 より一部抜粋)

そのほかにも、今町(現在の金屋町付近)に「布袋座」、西浜町に「千鳥座」、東浜町に「喜楽座」などがあった。
 
 
【コラム】やっぱり!長崎

外国人居留地、唯一の劇場
 
ナガサキ・パブリック・ホール
明治に入ると、中国や日本の港町を巡業する海外の劇団が長崎へも度々訪れていた。彼らは、長崎公演の数日前には必ず、「長崎シッピング・リスト」などの英字新聞に公演に関する広告を掲載。それを読んだ住民達は、劇団の芝居やコンサートなどの興業物に胸を躍らせ、続々と劇場へと詰めかけた。その公演場所は、大浦31番地にあった唯一の外国人劇場「ナガサキ・パブリック・ホール」。明治初期には、“長崎クラブ”という外国人の社交機関であった場所だが、その後改造され劇場となった。孔子廟裏門前、現在の日本キリスト教団長崎教会が建つ場所だ。明治28年(1895)12月4、5日、二日間に渡り上演されたのは、『大修道院長、アニー・メーイ』。新聞広告には、“愉快な、面白い、楽しい 抱腹絶倒の喜劇”との文字が踊った。
日本劇場の観劇料は15〜20銭程度(米一升〈1.4キロ〉が12、3銭の頃)だった当時、この観劇料が、上席2ドル、並席1ドル。1ドルが日本紙幣の1円10〜15銭だったというから、外国人劇場の方は、かなり高い観劇料だった。また、ナガサキ・パブリック・ホールでは、開演中に販売するコップ1杯10銭程の手作りアイスクリームが評判だったとか。 ナガサキ・パブリック・ホール跡
ナガサキ・パブリック・ホール跡には、現在日本キリスト教団長崎教会が建つ
 


最後に――。
文化は、平和な時代に発展する、という。長崎の町が歩んできた道は、「芝居」という文化にも反映されていた。江戸時代にはじまり、明治、大正、昭和と、かつてこの町に存在し、人々を楽しませた数々の「芝居小屋」は、今はもうすべて姿を消してしまったが、当時慣れ親しんだ人々の胸に刻まれた思い出は消えることはないだろう。それはこれからも、きっと。

参考文献
『長崎の歌舞伎―長崎芝居年代記 第一集―』若浦重雄著、『太陽スペシャル 長崎遊学』(平凡社)、『龍馬が見た長崎 古写真が語る幕末開港』姫野順一著(朝日出版社)、『長崎異人街誌』浜崎国男著(葦書房)、『長崎郷土物語』歌川龍平著(歴史図書社)


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