長崎ハタ、七つの魅力



遊技として、伝統工芸品として、長崎の歴史とともに歩んできたオランダ国旗と同じ配色の「長崎ハタ」。ルーツ、紋様の謎、専門用語etc……。
今、シンプルで洗練されたデザインに若者も注目!古くて新しい「長崎ハタ」の魅力に迫る。


ズバリ!今回のテーマは
「長崎ハタ解体新書」なのだ




「長崎ハタ」、それは長崎独特の「凧(たこ)」のこと。長崎人はこのハタを揚げることも凧揚げとは言わず「ハタ揚げ」と言う。
春――風が、北から南にその流れを変える頃、山々にはハタが揚がりはじめる。花が咲いたようだともたとえられる、のびやかですがすがしい景色だ。「ハタ揚げ」は、江戸時代から「長崎くんち」「精霊流し」とともに長崎三大行事のひとつとして親しまれている伝統行事。使用する「長崎ハタ」と「ビードロヨマ(糸)」は、平成5年、県の伝統工芸品に指定された。

長崎ハタ

正月と端午の節句以外には、ほとんど凧揚げが行われない他の地域と違って、春風の時季はもちろん、よい風が吹けば年中楽しまれてきたハタ揚げは、揚げる高さを競うのではなく、ビードロヨマというガラス粉を塗りつけた特別な糸(方言でヨマ)を使って切り合うのが特徴で、そのため「喧嘩バタ」とも呼ばれている。

凧合戦を行う地域は新潟県や静岡県などにもあるが、いずれも大凧を数人がかりで揚げての団体競技であるのに対して、長崎のハタ合戦は一対一の果たし合い。切るか切られるかの一本勝負に、子どもだけでなく大人も……というよりも、むしろ大人のほうが熱狂熱中してしまうようである。

伝来当初から長崎人を虜にしたハタ合戦は、江戸中期から明治時代に最盛期を迎えたと思われる。戦時下での衰退の後、昭和半ばには復興も見せたが、近年、さまざまな娯楽があふれる中で、ハタ揚げの楽しみ方も変わってきているように思われる。最大の娯楽として盛況を呈していた往時を偲びつつ、ハタ合戦が再びその賑いを取り戻すことを望んで、長崎ハタの今昔に迫ってみたい。以後「往時」といえば、ハタ揚げ大盛況の古き良き時代をさすものである。

そもそも長崎ハタってなーに?

ハタを知るにはまず、ほかの凧類との違いから考えてみたい。

凧は国字で「風にあがる巾(布きれ)」の意味。発祥地とされる中国から伝わったのは平安時代といわれ、当初は中国での表記そのままに紙の鳶(トビ)と書いて「紙鳶(シエン)、紙老鳶(シラウシ)」などと呼ばれた。狼煙(のろし)代わりや、敵陣に火を放つ道具にもなったという。その形状から江戸方面でタコ、京阪ではイカやイカノボリ、ほかにタカやタツ、テングなどと地域によって呼ばれるようになった。長崎での呼称はイカノボリが主流だったようだ。
寛政9年(1797)発行の『長崎歳時記』や文化文政期(1804〜30)編纂の『長崎名勝図絵(めいしょうずえ)』には、蝶バタ、婆羅門(バラモン)、剣舞箏(ケムソウ)など形の凝った大陸(中国)系の凧数種と、南方系といわれる3種のハタ、アゴバタ、海老尻(えびじり)、蝙蝠(コウモリ)バタが紹介されている。
2001.11月ナガジン!特集「寺町ぶらり散歩道」参照
浄安寺の巨大婆羅門
浄安寺の巨大婆羅門
(1780年頃のものの複製)

この頃はすでに「喧嘩バタ」盛況時代。昔は蝙蝠バタで切り合っていたこともあったようだが、時代が下るに連れ、より自在に操れるアゴバタが主流となっていった。つまり、現在「長崎ハタ」または単に「ハタ」といえば「アゴバタ」のことである。

さて、このアゴバタは、十字の骨組みがトビウオ(飛魚/長崎の方言でアゴ)の胸ビレを広げた形に似ていることからつけられたと想像できる名で、これが長崎ハタの基本形。海老尻はアゴバタの下部にエビの形の尾があるもの。蝙蝠バタは横骨の端を肘のように内に曲げた形をしていた。小バタといえば、アゴバタをそのまま縮小した子ども用である。婆羅門などの大陸系の凧=イカノボリと区別して、これら南方系のハタは「長崎ノボリ」とも呼ばれていたようだ。

それでは、まず手始めに、ハタ揚げの盛況ぶりが伺える、明治後期のハタ揚げ風景を覗いてみるとしよう。

明治42年(1909)5月22日付の東洋日の出新聞にはこんな記事が……。
「桃中軒凧揚会、桃中軒雲右衛門は昨日社中を引連れ午前十時より風頭山にて凧揚げを催せるが凝性(こりしょう)の同人とて凧は何れも二ツ巴(ふたつどもえ)の印を為し尚ほ社中を源氏〈白地に赤の二ツ巴〉平氏〈赤地に白の二ツ巴〉の二タ手に別ちて勝負を競はしめ勝者には浴衣地(ゆかたじ)屁古帯(へこおび)等の賞品を与へ……」

この桃中軒雲右衛門(とうちゅうけん くもえもん/1873〜1916)なる群馬県出身の浪曲師は、「雲の字」紋様の四畳半四角で骨は竿竹のハタを揚げ、これを切る者に懸賞をつけたのだそうだ。

これほどの変わり種は珍しいが、ハタ揚げの名手と知られた人々の多くは、いつもそれぞれ一定の紋様のハタを揚げたので、ハタを見れば、誰それが揚げている、とわかった。これを「印(しるし)バタ」といった。

それでは、明治時代、長崎の空を賑わせたハタ揚げの名手を2、3紹介しよう。
地元銀屋町生まれ、我が国写真術の開祖・上野彦馬(うえの ひこま/1838〜1904)もその一人で、「水に楓(かえで)」(あるいは水に紅葉)を揚げた。風雅人だった彦馬が特に愛賞したのが紅葉だったといわれ、また、恋仲だった女性の名(紅葉)からとられた紋様だとも伝わる。ハタ揚げの陣に張る幕にも同様の図柄を用いたという(「堅棒(たてぼう)」を使用していたとの説もある)。
2003.6月ナガジン!特集「写真は長崎から〜写真術の始祖・上野彦馬〜」参照

一方、地元榎津町生まれの実業家・帯谷宗七(おびや そうしち/1847〜1913)は、幼い頃から能楽を嗜み、諏訪神社の能舞台にも出演していた役者であった。明治23年、新大工町に国内初の本格的劇場「舞鶴座」を創設した彼の印バタは、「紺の帯(黒の横棒)」と伝わる。しかし、その表現はあまりに曖昧。帯谷の横棒に切られたという話が残っているので、黒か紺の横棒を苗字に合わせて「帯」と呼んだのかもしれないが、子孫をたどり尋ねてみても、その実体は残念ながら分からなかったようだ。
カステラの老舗 萄讐阿12代目、殿村清太郎(とのむら せいたろう/不明)は、店の名物菓子である紅白の打物(干菓子)「袖の香(そでのかおり/白無垢と緋の重衣)」からとって印とした。

ほかにハタ屋の主人やその息子なども印を持ち、これら名手の固定紋様は誰かが真似しようとしてもハタ屋がそれを許さず、そんな注文を入れても即刻断られる……なにより真似したハタを揚げていると白い目で見られた。また、あまりにも意匠に凝りすぎた紋様は「素人紙鳶」として軽く見られる風潮もあった。
印バタ
明治時代のハタ揚げの名手の印バタ

ハタ用語に「ツブラカシ」という言葉がある。要は相手のハタと絡ませて糸を切り合うことをいうのだが、それが転じて、ハタ揚げに金を使いすぎて財産をつぶした人を“財産つぶし”という意味にも使われた。つまりハタ揚げは“いき”に徹する大人の遊びだったということ。子ども達は、大人が興じるハタ揚げ風景を羨望の眼差しで見上げ、自らも腕を上げるために一年中、慣れ親しんだのだった。どうだろう? 少しは盛況期の長崎の空が見えてきただろうか?

長崎市内は、すり鉢状と形容される地形の性質上、風は朝な夕なにその方位を変える。時にはすっかり風がやんでしまうこともある。そんな時、子ども達は「愛宕の山(稲佐の山)から風もらおー、いーんま風もどそう(そのうちお返ししますから)。ぷっと、来い。ぷっと、来い。」と、歌いながら小バタを揚げてみたという。
2002.2.月ナガジン!歌で巡る長崎「わらべ唄」参照
 
かつて、市中の山々で見られた光景――風にのって舞い上がる数多の長崎ハタ。以降は、ハタ揚げ場のひとつ、風頭山でハタを作って40余年。明治40年(1907)創業「小川ハタ店」の3代目店主小川暁博(あきひろ)さんのハタ作りの一年を追いながらハタ揚げの魅力に迫ってみたい。

小川ハタ店
小川ハタ店(長崎ハタ資料館)
その前に、長崎ハタの誕生にまつわる話をひとつ。
 

長崎ハタの
七つの魅力
1――起源

長崎ハタの誕生はいつ?
現在のハタ、つまり南方系のアゴバタの伝来については、出島オランダ商館の従者として来たインドネシア人から伝わったというのが定説だ。しかし、同じインドネシア人でも、早ければ出島築造以前、市中に散宿していたポルトガル人に仕えていた従者達からすでに伝わっていたとの説もある。

凧ではない「ハタ」の語源は?
そして、語源の方にもオランダ船旗や船舶信号旗の「旗」が由来というものと、インドネシアで凧の意の言葉「パタン」からという2説がある。インド・パキスタン・インドネシアなどでは凧を「パタン」と言い、同じようにガラス粉を塗りつけた糸で勝負をする風習があるという。しかし、インド・パキスタンでは今でも確かに「パタン/patang」と言うが、残念ながらインドネシア語では「ラヤンラヤン/layang-layang、ラヤンガン/layangan」となる。パタンは古い言葉か、あるいは多言語の国だけに地方の言葉だったのかもしれない。

興味深いのは、インドネシア語の「layang-layang」に魚(ikan)をつけると「トビウオ」の意味になること。また、インドネシアの国旗が上下に赤と白(上が赤)の柄だということ。インドネシアの凧にも白赤青のものが多いことだ。

ハタは、凧の長崎方言だと誤解されがちだが、ハタはハタ、凧とは別物なのである。すべての凧類をハタと呼ぶ人もいるにはいるが、ハタ型のものはハタ、ほかはタコと呼び分けるのが、長崎人の正しい解釈である。起源も語源も古く、不明となった部分も多いが、それでも長崎らしく異国情緒にあふれていることは、間違いないようだ。
 

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