長崎ハタ、七つの魅力
それでは、この道40年、小川ハタ店店主、小川暁博さんの一年に迫ってみたい。

新年を迎えた喜びもつかの間、ハタ屋ではその年3月末頃からのハタ揚げシーズンに向けて、大量のハタを作るための準備作業がはじまる。多忙を極めるのは2、3月と見越し、1月の下旬、小川ハタ店をお訪ねした。

小川暁博さん
小川ハタ店の1年【1月〜2月】
1月は、まずは骨組みとなる竹を親骨〈縦骨〉・横骨それぞれの寸法通りに切り割る作業に取りかかるとあり、作業場には2種類の竹があった。昨年秋に採ってきたまだ青いものと、青味が抜けて黄味の強くなった一昨年伐採のもの。今年のハタ作りには一昨年のものを使う。新しい青竹のほうが軟らかく加工はしやすいが、一年以上枯らした竹は油分水分が抜けてきて、その後の作業〈油抜き・乾燥〉にかかる時間が短縮でき、硬い反面柔軟性に富み、耐久性が上がるのだそうだ。

小川暁博さん

ではここで、長崎ハタが喧嘩に適した理由をほかの凧との構造の違いから探ってみよう。
 

長崎ハタの
七つの魅力
2――構造

「喧嘩」に適した構造の秘密
両者の共通点は、骨組みが竹製で和紙を貼ることぐらいだといってもいい。凧には長方形や六角形、奴やセミをかたどった複雑な形も多く、骨組みは3本以上、外枠も竹で組まれ、つけ糸〈糸目糸/骨に結びつける糸〉も3本以上のものが多い。また、通常下端や左右に尾と呼ばれる帯状の紙や縄が長く付く。これに対し長崎ハタはひし形で骨は縦横2本のみ、あとは周囲にハリヨマ〈張り糸〉がしてあるだけでとても軽く、ツケヨマ〈つけ糸〉も上下2本のみ。上先端には※1ツンビといって親骨から引き続いて切り出し、釣針のように曲げた部分がある。そして、骨組みの左右には※2ヒュウ〈飛尾〉が下がるが、下先端には尾がないのが特徴で、それによって空中で不安定になり揺れ動く。しかし尾がないからからクルクル回っても絡まず、自在に動かせるのだ。

ハタ和紙の上下左右先端のひし形や三角の部分にも何か秘密が? と思いきや、実はただの“のりしろのあまり”で名もないのだとか。残しているのは美しさへのこだわり。確かに骨組みが隠れてスマートだし、あるとないとでは華やかさが違う。

※1ツンビ/元来、紙の房がついていたのではないかと考えられており、風切りの用法のものだったと推測されているが、やがて後退したのか、今はただ製作中に干すのに便利なよう作業効率を上げるために考え出されたと伝わる。
※2ヒュウ/薄い和紙に房状に切り込みを入れたものを、こよりと合わせ糊付けしたもの。これでバランスをとるため、傾くようなら間引いて調節もできる。

さて、ハタ作りのベース、骨組み作りの行程は、竹骨の粗削り、乾燥油抜き、仕上げ削りと続き、ツンビを炙って曲げ、縦横の骨を合体したら、ハリヨマをかけて完成となる。いずれもバランスが命、ハタの揚がり具合、勝負の行方に関わる重要な作業だ。

小川ハタ店の1年【3月〜4月】
3月になると※3ビードロヨマ作りを開始。2本の竹柱を8間(けん)間隔で立て、その間に麻糸〈赤苧(あかそ)ヨマ〉を張る。まず両方の柱に、外向きにいくつも小さい棒を差し込んで“くし状”の段をつけておき、そこへ糸をらせん状に巻いて、臼(うす)で挽いたガラスの粉と、糊となるご飯を混ぜ合わせたガラス団子を塗りつけて乾かすことを3回繰り返す。



ビードロヨマ
※3ビードロヨマ(硝子綯麻)/ガラスの粉を塗りつけた糸、略して「ビードロ」。この部分を相手のハタにかけて切り合う。長さを測る単位は「間(けん)」。
ビードロを乾かす間に、和紙を貼る作業も並行して行われる。紙切り包丁と型紙を使って和紙を切り、糊で貼り合わせ紋様を作る。風を受けてもめくれないよう端までしっかりと。このハタ紙の裏面に骨組みを縦骨のみに糊を付けて貼ったら、のりしろを残してひと回り大きくカットする。のりしろの上下左右数箇所に切り込みを入れ、四辺に糊を付け、ハリヨマに沿って折り返したらツンビを作業場に張った糸にかけて干し、乾けば本体の出来上がりだ。この時期は、ハタ揚げ大会間近につき、大量のハタの仕上げ作業で大忙しの毎日。
乾けば完成!

小川ハタ店の1年【8月末〜9月】
蒸し暑く湿度の高い梅雨が過ぎ、夏が終わろうとする8月末から9月には染めの作業に入る。染めの行程は、湿気や気温で微妙に色が変わる繊細な作業のため、適した時期が限られているのだ。それでも、どんなに気を使って同じように配合しても、毎年毎回ほんの少しの差は出てしまうのだそうだ。

ということで、ここで長崎ハタの色彩の魅力に迫ってみよう。
 

長崎ハタの
七つの魅力
3――色彩

進化する色彩。昔は今と違う色?
ハタの紋様は描くのではなく、それぞれの色に鮮やかに染められた和紙を切り貼りして作られる。紙の地色の白に赤と青、まれに黒や黄の和紙と金紙を使ったものもある。今も昔も紙は筑後八女の百田紙(土佐清長紙を用いることもあった)で、色紙は一枚一枚丁寧に刷毛染めする。染料は色あせするという難点を抱えているが、間近に見た時の紙肌の質感や空に揚げて日差しに透かした時のステンドグラスのような美しさは、それを補って余りあるものだろう。


染料は、赤が酸性染料、青は塩基性染料としか公表されていない。これについて小川さんにお尋ねしたが、染料は京都で求めること以外、詳しい染料名や配合は「企業秘密」とふられてしまった。ただし貴重なお話もお聞きすることができた。

創業以来、先代達は各色に染められた和紙を買いつけてハタを製作していた。しかし小川さんが3代目を継ぐにあたり、「和紙作りはともかく、せめて染めからは自分の手でやらなければ、いつかハタがすたれてしまうのでは」と思い立ったという。そこで、京都の染料店を訪ねて染料を買いつけ、試し染めをしては配合を変え、と日夜研究を重ねた。見本となる和紙はあるが、完全な同色にするのは不可能。それに、真似るだけではいけないと思ったという。それからは、既存の色を超え、さらに美しく長崎の空にふさわしい赤を、青を、と納得のいくまで試行錯誤が続いた。つまり、現在を生きる私達が「ハタ」と聞いて思い浮かべる色は、小川さんが生み出した小川ハタ店独自の色なのだ。

だとすれば、昔の空には今とは違った色のハタが舞っていた可能性があるということでもある。長崎の郷土史家・渡辺庫輔(くらすけ)著『長崎ハタ考』には「浅黄」〈黄味がかった薄い青色〉という色名が多く出てくるし、「ハタの模様は紺、赤、藍の色紙を使ひ」ともある。また前述の帯谷の印バタ「紺の帯(黒の横棒)」のこともあるから大いに混乱させられる。実際の色は黒のものを縁起が悪いなどの理由で「紺」と呼んでいたが、現代では「黒」とありのまま呼ぶようになったのか? それとも実際は紺だがとても濃いため「黒」と通称されていたものが、代々伝わるうちに実際の色まで「黒」になったのか? 「浅黄」はとあるハタ店独自の青だったのか? それとも青はもともと「浅黄」と呼ぶほど淡い色だったのだろうか?

また、『長崎ハタ考』によると、安政6年(1859)東浜町生まれ、国文学者にして歌人、俳人であった風雅人・半顔居士(こじ)こと、足立半顔(あだちはんがん)は「井桁(いげた)、きり餅、山形」などを挙げて「右数種の形は紺土佐紙を用ひて造る」といったそうだが、現在これらの紋様は主に青で作られている。

小川さんは「そういえば子どもの頃に、これ(今の青色)よりもずっと濃い紺色のハタが揚がっているのを見た記憶がある」と、奥の部屋から一冊のノートを出してきてくださった。B5のノートにハガキ大のハタ和紙が貼られた、いわゆるデザイン帳。最初の数ページに、確かに濃紺のハタがあった。創業者である祖父の敬太郎さんが遺してくれた明治時代に染められた和紙なのだそうだ。
深くしっとりと落ち着いた色は、「重厚感があって、大きなハタに合いそうだ」と、往時の色彩に興味津々。

昔の青色

実は、ここまで濃くはないが、すでに普通より濃い青の紙を使った作品があるという。作業場奥の壁に掛けられた「鯉の滝のぼり」がそれだった。濃い青に水しぶきが浮き立ち、鯉が跳ね出てくるようだ。通常の合戦用のハタよりもふた回りほど大きいので、その迫力も格別である。
ハタの色は進化している。伝統を守りながらも常にその時代に合わせて。かつて多くの店が軒をつらね賑わっていた頃は、それぞれの店のそれぞれの色のハタが空を舞っていたのかもしれない。
鯉の滝のぼり
小川ハタ店の1年【11月】
さて、年も押し迫った11月は、竹の伐採の月。毎年、いくつかの竹林を偵察し、節目の長い、ハタに適した竹を1年分(翌々年の分)、選びぬいて伐採する。なんと、その数20本! ハタ作りは重労働だ。この竹が数千枚の長崎ハタに生まれ変わるのだ!

1月〜2月の骨組み作業、3月〜4月のビードロヨマ作り+和紙貼り作業、8月末〜9月の染めの作業、そして11月の竹の伐採。季節を決めて行われる作業は以上で、あとは注文が入り次第そのハタの製作に取りかかるのだそうだ。


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