幕末の名奉行・岡部駿河守という男

岡部駿河守のお仕事2
諸外国人との間
「外国人との関係作りに努めます!」

いくらそれまで、世界に開かれた日本の窓口であった町とはいえ、オランダ人と中国人に限った貿易だった鎖国時代とは勝手が違う。アメリカ人、イギリス人、フランス人、ドイツ人、ロシア人、はたまたトルコ人、アラビア人と世界各国から貿易商人達がやって来たのである。出島や唐人屋敷の一応、閉鎖されていた中での関わりとは違い、新しく来た外国人達の生活はあけすけで、彼らの持ち物を盗む「こそ泥」や、外国人の増加によって急増した肉の需要に伴い、奉行所が認可した牛馬売込人(ぎゅうばうりこみにん)が登場。彼らによる「肉の闇取引き」が横行するなど、新種の犯罪が増えた。

寛文6年(1666)〜慶応3年(1867)の200年間に及び145冊にまとめられた長崎の町で起きた事件記録、『犯科帳』収録の安政以降の事件は、まさに世相を反映している。

その『犯科帳』から、岡部駿河守の在勤中である安政6年(1859)の事件をひとつご紹介。

とある英国船の水夫ヤーメス・コンローが、長崎の町で人に勧められ馬に乗った。しかし、あまりにへたくそで馬は一向に進まず、危なっかしい。それを珍しがった見物人が増えてきた。その中の一人、船大工町の次助が覚えたての異国言葉で「上手だ」と冷やかした。すると、周囲もはやし立てヤーメス・コンローは立腹。馬から下りて次助に迫ろうと見物人の元へ駆け寄ってきたが、次助は頓挫(とんざ)。逆に見物人達が大勢でヤーメス・コンローを袋叩きにして傷を負わせ逃げた。それからややこしいことに、そこへ通りがかったイギリス人が仲間の負傷に憤り、持ち合わせていた剣や棒を振り回し、何も関係のない日本人4人に傷を負わせ立ち去ったのである。すぐに次助は捕えられ、急度(きっと)叱り処分となったが、ヤーメス・コンローを殴ったものは現れず……。そこで、長崎奉行の登場。岡部駿河守は、英国領事のコンシュル・ショウエスモリソンに掛け合い、事件に関係のない日本人を傷つけたイギリス人達を英国の法によって処罰されるよう懇請した。

開国後、このような諸外国人とのイザコザはあとを絶たず、事件の度にいちいち各国の領事に連絡し、しかもその多くは※注3江戸表へ伺いを立てなければならなかったというから、岡部駿河守は本当に職務に忙殺されていたことだろう。

※注3/「江戸表」とは、政治や文化の中心地である江戸を、地方から指していう言葉。
 

岡部駿河守のお仕事3
小島養生所と稲佐花町
「市民の身体を守ります!」
長崎海軍伝習所跡
現在の長崎県庁の場所に開設された
長崎海軍伝習所

小島養生所跡
佐古小学校敷地内に建立された記念碑

実は岡部駿河守は、安政2年(1855)に開設した長崎海軍伝習所に目付として赴任している。教授科目は、航海術、運用術、造船、砲術の実技、天測の実技、数学、蒸気機関、鉄砲調練などなど。その伝習を監督するのが、彼の任務だった。任期中の安政4年(1857)には、幕府がオランダに発注した新建造軍艦ヤッパン号(咸臨丸)が長崎港に入港。なかにはオランダ海軍2等軍医のポンペ・ファン・メーデルフォールト、オランダ海軍機関将校のヘンドリック・ハルデスの姿もあり、この年、新たに伝習生として松本良順(りょうじゅん)らが入所。第2次の海軍伝習が始まった。

この時の出会いが、長崎奉行として着任した後の仕事に影響してくる。

ポンペ

松本良順

ポンペと松本良順、彼らはいわずと知れた長崎大学医学部の創設者。岡部駿河守は、ポンペ・松本良順らの解剖、病院の設立、貧民医療などにも便宜を図った。小島郷の高台(現在の佐古小学校の場所)にわが国最初の西洋式付属病院「小島養生所」が完成したのは、文久元年(1861)9月のことだ。

※2008.12月 ナガジン!特集「西洋の風が吹く―長崎の医学史を支えた人物」参照

また、その前年の万延元年(1860)。8月に入港したロシア艦ボスサジニカ号がマストの修理で長期滞在となった。その際、稲佐の地に丸山町と寄合町の遊女が出張してロシア人の船員達の相手を務めることになった。それに対しロシアの提督ビリノフは、遊女の梅毒検査をすることを要求。岡部駿河守は良順に対応を諮問し、それに対して良順は受けるべきだと回答した。これにより、日本初の梅毒検査が長崎で実施され、同時に稲佐花街も誕生したのだった。

※2009.4月 ナガジン!特集「稲佐山のすべて」参照
 

岡部駿河守のお仕事総括
町のグランドデザインを描き
導いた結果が今の長崎のカタチ

そして、ハルデスを主任技師として、日本人の職工たちがオランダから取り寄せた工場のねじ切り盤や、工作機械を操りながら西洋科学を習得し文久元年(1861)3月に完成したのが日本初の本格的な洋式工場「長崎製鉄所」である。

その他、輸出用の製茶出張所の設置や亀山焼窯の再興、外国人相手の商人の営業組合結成、踏み絵の廃止、英語伝習所創設など、岡部駿河守は、激動期の長崎で繊細かつ大胆な仕事を泰然と行っている。

時流を捉え、この町が持つ歴史性、地域性、可能性を発揮する「町づくり」。在勤中、岡部駿河守は、柔軟な発想と迅速な行動力、決断力で、進みゆく長崎の町のグランドデザインを描き、推し進めた長崎奉行だった。

彼の最後の仕事は、文久元年(1861)大浦川上町に造設した居留外国人の墓地(大浦国際墓地)だった。そして、グラバーが「グラバー商会」を旗揚げし、長崎が新たな局面を迎えたその年の9月、岡部駿河守一家は、江戸へと向かった。陸路での往来が定番だった長崎奉行。着任の際は日見越えだった岡部駿河守の帰途は海路だった。それは、忙殺された4年間、なかなか省みることのなかった妻子への思いやりだったのかもしれない。

大浦国際墓地
 

最後に−−。
後に歴代奉行の中でも随一の人材といわしめる岡部駿河守。見識豊かな開明派。まさしく、当時、激動の真っただ中にあったこの町を取り仕切る最高管理者としては適任だったことだろう。今も見回せば、名奉行 岡部駿河守の仕事を町なかに見つけることができる。現代に置き換えて考えてみても4年間の彼の激務は計り知れない。あらためて長崎の発展に寄与した偉大なる150年前の名奉行に感謝!である。

参考資料
★参照ホームページ
長崎大学付属図書館医学分館所蔵 近代医学史デジタルアーカイブズ
http://www.lb.nagasaki-u.ac.jp/search/ecolle/igakushi/index2.html
★参考文献
『長崎居留地 一つの日本近代史』重藤威夫著(講談社)、『新釈犯科帳 第1〜3巻』安高啓明著(長崎文献社)、『犯科帳』森永種夫著(岩波書店)、『埋もれた歴史散歩 長崎 唐紅毛400年のロマン』田栗奎作(白馬書房)、『長崎異人街誌』浜崎国男著(葦書房)


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