記録写真家・高原至が見つめ続ける長崎

長崎密着の写真と映像
そんな高原至さんは、会社設立から現在に至るまで、写真と映像を通し、常に地域に密着しながら歩み続けてきた。自らをコピーマン、メモリーマンなどと謙遜されるが、その膨大な量の写真と映像は、貴重な記録としてだけでなく、多くの市民の思い出を甦らせる感慨深いものばかりだ。

活水周辺洋館群 (昭和36年)

今回の写真展で、多くの人がその場から動けなくなった大パネルが数点あった。昭和27年、長崎県から依託を受けて行った長崎市の空撮写真だ。入場客の多くは、それらの写真を前に、指を差し、食い入るように自らの思い出の場所を確認していた。

高原至さん「今までに見たことない角度で、長崎の街を見渡せたこの経験は、貴重なものでした。1週間、あっという間でしたね」。




空撮 磨屋小・中島川・長崎中・
本大工町市民グランド・市役所
(昭和27年)

この空撮は、高原さんにとって、とてもエキサイティングな経験だったようだ。

高原至さん「私はいつも撮ってしまったら落ち着いて、整理した写真は寝かせたまま。それを周りが形にしてくれる、いつもそんな感じなんです(笑)」。
原爆で倒壊した旧浦上天主堂を撮影した貴重な写真も、周囲の手によって私達の目に触れる運びとなった。2010年に発行された写真集『長崎 旧浦上天主堂1945-58 失われた被爆遺構』だ。

高原至さん「かねがね私は豪傑で知られる浦上天主堂の中島神父様と懇意にしていました。被爆後のある時、その中島神父様が天主堂からの道をトボトボと歩いて来られて、“コンチクショー”と言われるんです。それは、被爆の爪痕を残す浦上天主堂の取り壊しを長崎市が決めた時でした」。


写真集
『長崎 旧浦上天主堂1945-58
失われた被爆遺構』

長く苦しい弾圧の時を超え、やっと手にした浦上の信者さん達の心の拠り処であった浦上天主堂。それが、被爆、取り壊しという無惨な結末を迎えることになった。

高原至さん「それでも中島神父様は、信者さん達のことを一番に考えるのが神父の役割だと、一刻も早く新しい教会をつくることに心血を注がれました。私が撮影させて下さい、と言うと、“好きなように撮っていいよ”とおっしゃって下さり、私は取り壊されていく浦上天主堂の敷地内を心のままに動き、撮影しました。その様子を見ながら、私はすべてから脱皮したい、そう思ったのを憶えています」。


廃墟で縄跳び遊びの女の子たち
(昭和32年)



土ぼこりを上げ倒壊する南塀
(昭和33年)
それは被爆から13年後、昭和33年の出来事だった。原爆の爪痕が刻まれた旧浦上天主堂と、それが解体される様子を捉えた数々の未公開写真「旧浦上天主堂の記録」展が、長崎・東京・愛知などで開催され、写真集と合わせ大きな反響を呼んだ。

高原至さん「このお話も、執筆者の横手さん、岩波書店の方から導かれたようなものでした」。


首にロープを巻きつけられ転がされている
聖ヨハネ像(昭和33年)
 

ポルトガルに懐かしい長崎を見つけて

昭和43年、高原さんが制作した長崎県観光映画『長崎の詩』が日本観光映画コンクールで運輸大臣賞受賞する。そして、その後も長崎を撮り続けることで、この街の魅力を、しかも高原さんならではの新しい角度によって、深く追究していく活動が加速していく−−。

昭和52年、映画『ポルトガル』を自主制作。また、昭和54年、天正遣欧少年使節の足跡を追った約1ヶ月に及び取材を行い、史実に基づく16ミリドキュメンタリーカラー映画を制作。そこには、長崎とは縁深い、ポルトガルとの出会いがあった。

高原至さん「はじめリスボンに着いた時、街全体が古き良き姿を留めていることに感動しました。家の外見はそのままに、内装は時代に応じて新しくして暮らしている。長崎との違いに、街の造り方を考えさせられました」。

ポルトガルの中でも、長崎市と姉妹都市関係を結ぶ「ポルト」の街が高原さんのお気に入り。

高原至さん「ポルトには30回は行っていますね。やっぱり大通りは好きではなくて、横道に入った所がいいんです。七輪を外に出してイワシを焼いていたりね、これをパンに挟んだら美味しいんですよ。そんなふうに昔の長崎でも出会った光景、人とのふれあいが、今現在もあるんです。当時のベローゾ市長さんとは、今も友人で、度々メールで会話しています。私より3ヶ月お兄さんで、返信しないと、“元気にしてるのかー”って電話がかかってきますよ(笑)。結局私は、街ではなく人、人とのふれあいを求めているんだと思います。“また見に行く”ではなく、“また会いたい!”ってね」。

古い街並みを大切に守っている街、ポルトガル。古いものが決して良いだけとは限らない。ただ、古いものを残すということに“人のぬくもり”が潜んでいるような気がする。
※2009.7月ナガジン!特集「長崎の姉妹都市−心をつなごう、ずーっとつなごう−」参照

取材後、写真が見渡せる展示スペースの中央で、高原さんは多くの方に声をかけられお話されていた。昔、交流があった方、伴侶がお世話になったと訪ねて来られる方、写真に感動して思わず声をかけてしまう方……そんな方々一人ひとりに、高原さんは笑顔で応えておられる。その傍らに素敵な御夫人がおられた。

高原至さん「家内には感謝しかありません。私が好き勝手やってこられたのも、あとのこと全部をきっちり家内がやってくれたお陰ですよ。本当に感謝、感謝です(笑)」。

そう言いながら胸ポケットから2枚のモノクロ写真を出して見せてくださった。 どちらもお二人が出会った頃のもので、1枚は奥様の顔写真、そしてもう1枚は旧浦上天主堂の遺構の傍に佇む奥様の写真だった。シャッターを切った時の高原さんの感動がそこはかとなく伝わってくる。

今に繋がる写真。写真は時を結ぶ−−そう思った。


“賃つき餅”本籠町町角歳末風景
(昭和33年)

さくら満開の日見街道を走る県営急行バス
  文明堂植樹(昭和33年)


川遊びの子どもたち
中島川も格好の遊び場(昭和35年)


浜町アーケード街
テラゾー舗装で“都会”の装い(昭和44年)
 

最後に--。
常に新しいことを追い求める、探究心。お人柄が前面に出た豪放磊落な話しぶり。
展示された数々の写真には、心のおもむくままに歩んで来られた、そんな高原さんのイキイキと輝く人生を垣間見ることができる。これからも高原さんが見聞きし、感動した時、指はいつの間にかシャッターを切っていることだろう。
誰にとっても写真は、日頃しまっている心の扉を開く魔法の鍵。高原さんの写真は、市民の心にいつも豊かな財産が眠っていることを教えてくれる、そんな魔法の鍵だ。

参考文献
『長崎 旧浦上天主堂 1945-58 失われた被爆遺産』写真・高原至、文・横手一彦、訳・ブライアン・バークガフニ(岩波書店)/『長崎くんち回顧録(昭和30年代の賑わい)』(株式会社 DEITz)


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