長崎から世界の宝へ〜長崎の教会群とキリスト教関連遺産の世界遺産登録を目指して〜

復活…復活による弾圧…
新しいキリスト教信仰の物語。
keyword.7……「天主堂」

全世界に驚きと感動を与えた
信徒発見の奇跡。
大浦天主堂
大浦天主堂
写真提供:長崎県観光連盟「旅ネット」

キリスト教禁教の高札が下ろされる以前の安政5年(1859)、長崎の港は、函館、横浜ともに開港し、外国人居留地が形成された。東山手、南山手、大浦の順に造成されていった外国人居留地には、各国の様々な文化が瞬く間に入り込み、外国人街が形成されていった。そこには当然のことながら教会堂も建立されていく。

東山手の丘に初めて建てられた教会堂はカトリックではなく、プロテスタントの教会「英国聖公会会堂」(文久2年/1862創建)。プロテスタントの教会堂は日本初であり、長崎はプロテスタントが伝来の根拠地となった。

この年の6月8日、教皇ピオ九世が西坂の殉教者26名を聖者の列に入れる。

それから3年後の元治2年(1865)、南山手の丘には、パリ外国宣教会のフィーレ、プチジャン両神父の尽力により、再びカトリックの教会堂が建立される。現存する国宝大浦天主堂である。この教会堂の正式名称は、日本二十六聖殉教者天主堂。26名の殉教者に捧げられ、殉教の地である西坂の丘に向かって建立された教会堂なのである。

しかし、居留地に住む外国人のために建立された教会堂にも関わらず、大浦天主堂の正面には「天主堂」という日本語の文字が掲げられた。これは微かな望みとはいえ、かねて布教の地であった長崎に、潜伏しているキリシタンの存在を意識してのことだったという。そこで、全世界に驚きと感動を呼び起こした信徒発見の奇跡が起こるのだった。
※2003.3月 ナガジン!特集「国宝・大浦天主堂とキリシタンの歴史」参照

西坂の丘に向けて建てられたこの聖堂の呼びかけに応えるように、献堂式からひと月後の3月17日、かねてよりキリシタンの聖地であった浦上の信者がやって来た。そして聖堂内で祈るプチジャン神父に近づき「ワタシノムネ、アナタトオナジ」、つまり、私達もあなたと同じ信仰をもっていますと囁いた後、「サンタ・マリアの御像はどこ?」と尋ねた。そこでプチジャン神父は大喜びで彼らをマリア像の前に導いたという。堂内、向かって右祭壇に現存するマリア像こそ、その奇跡の一部始終を見守った「信徒発見のマリア像」。そして、天主堂正面には、この奇跡を記念してフランスから送られた白亜の「日本之聖母像」が安置されている。この2体のマリア像は、弾圧、殉教、潜伏と、先祖代々苦しみ抜いてきた長崎県下のキリシタン達の明日を照らす「希望の光」となった。

信徒発見のマリア像
信徒発見のマリア像


日本之聖母像
日本之聖母像
   
keyword.8……「表明後の弾圧とカクレキリシタン」

神父との出会いを果たした
キリシタン達の2つの道。

秘密教会・サンタ=クララ教会堂跡
秘密教会・サンタ=クララ教会堂跡

禁止令から実に250余年の歳月を経て、公の場に姿を現した浦上のキリシタン達のニュースは、世界中を驚かせたと同時に県下で同様に潜伏していたキリシタン達を動かす。7世代待ち望んだ神父との出会いを実現した浦上の潜伏キリシタン達は、すぐに要理(キリスト教の教え)を学ぶために浦上村の4ケ所に秘密教会をつくった。また、五島、野崎島、外海、神の島など長崎県の各地から、さらに遠くは福岡県の今村からも、噂を聞きつけたキリシタン達が大浦天主堂に名乗りをあげにやって来たのだ。

そして、このように潜伏キリシタンとプチジャン神父の間で交わされた交流によって新たな局面を迎える--。

浦上四番崩れ五島崩れ(下五島・久賀島(ひさかじま) /上五島・鷹ノ巣ほか)……キリスト教を信仰していることを公然と表明したゆえの弾圧が待ち構えていたのだ。

明治元年(1868)にはじまる浦上四番崩れでは、浦上村民総流配 (流罪)が決定され、村民3394人が20藩22ケ所に流配された。彼らはこのことを「旅」と呼ぶ。
※2004.3月 ナガジン!特集「浦上カトリック信徒と聖地巡礼」参照

しかし、明治維新により、海外の風を取り込んだ新しい国づくりがはじまったにも関わらず、キリシタンへの厳しい弾圧を続けることに世界から強い非難を受けるようになると、明治政府はキリシタン禁制の高札を撤去する。明治6年(1873)、信仰の自由が許された新しい時代へと突入したのだ。全国に流配されていた浦上の信者達も長く苦しい「旅」から帰ってきた。

そしてこの高札の撤去を境に生じたのが、「復活キリシタン」と「カクレキリシタン」、潜伏キリシタン達が選んだ2つの道だった。

信仰が黙認されると、キリシタンの多くは神父を迎え、粗末ながらも自分達の教会堂を建てるなどカトリック教会への復活キリシタンの道へ進んだ。しかし、なかにはカトリック教会堂で祈ることをせず、先祖から受継いだ信仰のスタイルを守り抜く人々も存在したのだ。

神父達がいなくなった長きにわたる潜伏時代、キリシタン達はそれぞれの集落で組を作り、神父の役目をする帳方役(ちょうかたやく)ほか、水方役(みずかたやく)、聞役(ききやく)など、それぞれに役割を設けて祈りや教義を伝承していった。先祖から教わった祈り・オラショは、親から子へ、子から孫へ……禁教下の厳しい環境ゆえ、他の宗教の影響を受けることも、あるいは先祖崇拝と結びつくこともありながら、代々伝承されてきた信仰を守り続けたのだ。そして、信仰の自由が認められた後もそのままの信仰形態を受け継いでいるそれらの人々はカクレキリシタンと呼ばれる。彼らは長崎の外海地区のほか、上五島や平戸の生月島などで、今も当時のままの信仰を伝承し続けている。
 
keyword.9……「信仰の証=教会堂」

復活を遂げた信者達の
夢にまで見た教会堂づくり。

旧五輪教会堂
旧五輪教会堂
写真提供:長崎県観光連盟「旅ネット」

待ちに待った神父との出会いと、信仰の自由を許された環境のなかで、信徒達は次々と自分達の教会堂建設に取り組んだ。貧しい暮しのなかで生活を切り詰め労働に勤しみ、長い禁教時代を生き抜いた先祖への思いを込めた夢「祈りの家」を自らの手でつくりあげたのだ。外海、下五島、上五島、野崎島、黒島、平戸……。この新たな教会堂建築の設計には、ペルー神父フレノ神父ド・ロ神父など数々の神父が関わり日本人大工が汗を流した。そして、神父達の指導を受け教会堂建築を手掛けていったのが、日本人初の教会堂棟梁鉄川与助。彼は、西洋の教会堂建築の影響を受けながら、日本建築の技術を巧みに取り込んだ西洋と日本の融合、あるいはそれぞれの地域にふさわしい教会堂を次々に建設していった。

出津教会(外海町)堂
出津教会(外海町)
写真提供:長崎県観光連盟「旅ネット」

小値賀町 野首天主堂(野崎島)
小値賀町 野首天主堂(野崎島)
写真提供:長崎県観光連盟「旅ネット」
もちろん、長く厳しい「旅」から帰郷した浦上の信者達にとっても悲願の教会堂。浦上教会は明治28年(1895)、フレノ神父の設計施工にて建造開始された。そして起工から30年後の大正3年(1914)、正面双塔にフランス製のアンジェラスの鐘が配された石と煉瓦造りの東洋一のロマネスク様式大聖堂が遂に完成。浦上信徒の苦難と信仰の象徴となったのだった。
旧浦上天主堂の遺壁
旧浦上天主堂の遺壁
 
 

最後に--。
県下に点在する「長崎の教会群」が持つ背景と価値が少し見えてきただろうか?
現存する教会堂だけではなく、伝来から繁栄、禁教、潜伏、復活と、時代の経過を物語る「キリスト教関連遺産」が実に多く、意味のある遺産であるかということを。250余年もの受難に堪え、迎えた奇跡は、他に類のない出来事であり、世界中の人々に勇気と感動を与えた。今も全国でも有数のカトリック信者を擁する長崎県は、幾多の苦難を乗り越えた「キリシタン」と呼ばれた先祖の上にある。そのことを忘れず、また世界中の人々に伝え続けていくために、心をひとつに世界遺産登録への道を歩んでいきたいものだ。

参考文献
『長崎を開いた人--コスメ・デ・トーレスの生涯』パチェコ・ディエゴ(結城了悟)著、佐久間正 訳(中央出版社)、『歴史の平戸』(平戸文化財研究所)、『日葡交渉史』松田毅一著(教文館)、『日本初のキリシタン大名 大村純忠の夢〜いま、450年の時を超えて〜』(活き活きおおむら推進会議)、『日本キリシタン物語』結城了悟 http://www.pauline.or.jp/kirishitanstory/


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